秦の始皇帝が死亡し、次の時代のトップの座を争った項羽と劉邦。結果的に劉邦が、漢王朝の初代皇帝に君臨します。では、2人の運命を左右したものは一体何だったのでしょうか。
この記事では、漢王朝の初代皇帝となった劉邦の勝因を、戦略がテーマのビジネス書「胸アツ戦略図鑑 逆転の戦いから学ぶビジネス書」よりご紹介します。劉邦が項羽に勝てた勝因を知るために、ぜひ最後まで読んでみてください。
目次
項羽と劉邦
項羽と劉邦、それぞれの生い立ちとその戦いを見ていきましょう。
正反対の生い立ちを持つ項羽と劉邦
秦の始皇帝が死亡し、次の時代のトップの座を争った項羽と劉邦。2人の生い立ちは正反対でした。
項羽は秦に滅ぼされた楚という国の名門出身で、帝王学を学び、一族の復讐に燃えるエリートでした。秦が国内の反乱で揺れると、叔父である項梁とともに、仲間を集めて祖国復興を目指しました。
一方の劉邦は、詳しい出生については今でも分かってはいないものの、沛県(現在の中国東部)という地方都市の農家に生まれたと言われています。
農業を嫌い、遊びとお酒にふける青春時代を過ごしたようです。今でいう不良のイメージでしょう。
しかし劉邦はこののち政府で働くことになります。始皇帝の墓を作る仕事を任されますが、「そんなキツイことやれねぇわ!」と働き手が次々に逃亡。劉邦もヤケクソ気味に任務を放棄しました。そして働き手たちを組織して軍団を作ったのです。
その評判を聞いた人たちも次々と声を上げて加わり、気づけば軍団のリーダーになっていきます。正反対の道から2人はともにリーダーとなったのです。
楚王となった項羽
「秦を倒し、楚を復興させる」という目的は共通していましたが、出自も性格も正反対の項羽と劉邦。
楚王である義帝が「先に関中(中国中央部)へ入った者をこの地域の王とする」と約束したため、2人は運命に導かれるように、競って秦の都がある関中へと向かいます。
先に関中入りをしたのは劉邦です。しかし劉邦は、1ヶ月遅れた項羽に王座を譲ろうとします。
ところが項羽側には「劉邦はああ言ってるけど、実は王の座を狙っている腹黒いヤツらしい」というタレコミが。さらに予定されていた劉邦との会食を前に、「劉邦は危険です。今のうちにヤッちゃったほうがいいのでは?」という部下からの提案がありました。
考えた末に項羽は宴会で劉邦の暗殺計画を実行します。
しかし劉邦の家臣が命がけで阻み、劉邦は無事でした。 この事件が「鴻門の会」として知られています。
もともとは共通の目的を持った二人。利害の一致で共同戦線を張り、秦の都を攻め落とし、楚によるクーデターに成功します。
その後は項羽が実質的な王として中国の新体制を作っていき、劉邦は「漢中(中国中西部)」の王になりました。
ただし当時の漢中は僻地。劉邦は「地方でおとなしくしとけ」と言われたようなものです。それでも腐らず漢中の地でチャンスを待つ劉邦。
もともと劉邦軍には蕭何・曹参・張良という優れた家臣がいました。さらに項羽軍で不遇だった韓信という人物にも出会います。「国土無双の人物」とも評された韓信は、劉邦軍で大将にも抜擢されました。
劉邦が着々と力を貯えていった一方、項羽は楚の王である義弟と対立し、最後には暗殺したと言われています。項羽は名実ともに楚王となり、中国での影響力を高めていきます。
漢王朝の初代皇帝へ
項羽が挙兵した大義名分は楚の復興。しかし楚の王を自ら殺したとなれば、行動と言葉が完全に矛盾しています。そこで劉邦は義帝の無念を晴らすという大義のもとに、項羽との戦争に踏み切ります。
劉邦が率いる漢軍は、巨大な兵力で項羽(楚軍)のいる彭城を攻めました。兵の数だけで見れば劉邦が圧倒的に有利。しかし漢軍は彭城に入ると財宝や美女を手にして毎日どんちゃん騒ぎです。
項羽が兵を率いて戻ってくると、あっさりと追い払われてしまいました。
劉邦たちはこの敗北を猛省。「背水の陣」の語源にもなった韓信の活躍などもあり、戦況は徐々に好転していきます。
しかし両軍の兵士たちは疲弊しており、劉邦が膠着状態になったところで和平を申し出ると、項羽はこれに応じました。
この動きに反応したのは、劉邦の家臣である張良と陳平。これほど簡単に和平に乗るということは、項羽も追い込まれているのではと考えます。
劉邦は追撃を提案され、これを了承します。劉邦は安心していた楚軍にだまし討ちをしました。これで両者の力関係は完全に逆転したのです。
項羽の楚軍は疲弊した10万の軍勢。対する劉邦の漢軍は30万の軍勢を確保しました。劉邦は数を活かして四方から項羽を囲みます。完全に追い込まれた項羽。
その夜、漢軍の兵士たちは口々に「楚の歌」を歌い出します。これは「楚人の多くが漢軍に味方している」とう意味で、項羽はこれを見て「もはやこれまで」と悟ったのでしょう。
劉邦は中国統一に成功。漢王朝の初代皇帝として安定的な政権を築き上げていきます。
劉邦の勝因とは
劉邦の勝因は何だったのでしょうか。劉邦という人物を説明していきます。
背水の陣の語源
項羽軍で不遇だった韓信は、劉邦軍で大将に抜擢された人物です。韓信が「趙」と戦うことになったとき、自軍3万に対し趙は20万だったといいます。
この状況に対して韓信は、川を背にした場所に1万の兵を置く作戦に出ました。これは戦のセオリーを無視した自殺行為ともとれる作戦です。
趙軍の攻撃に死に物狂いで戦う韓信軍。趙軍は大苦戦します。韓信はひそかに組織した2000の別働隊を敵の砦へ向かわせます。そしてやすやすと砦へ入り、自軍の赤旗と趙軍の旗を取り換えて砦が落ちたことをアピール。
砦に引き返してきた趙軍が動揺して総崩れになったところを挟み撃ちして勝利に導きました。
韓信は「絶体絶命のピンチになれば、かえって生き残ろうと必死になるもの」と言ったようです。これが背水の陣の語源ともいわれています。
劉邦が持つ人間としての資質
項羽と劉邦の運命を左右したのは、人間としての資質だとよく説明されています。
劉邦は有能な家臣を大切にし、能力のある者を積極的に登用していました。方針が異なる項羽からは、多くの家臣が離れていっています。
韓信は項羽のことを「武勇に優れ、他人を従わせる力はあるが、家臣に一切を任せることはできず、功績のあるものに恩賞を与えられない人物」であると評し、劉邦のことを「武勇はそれほどでもないが、家臣を信じ、一切を任せられる人物」だと評しています。
劉邦が持つ他人を魅了する懐の深さが、結果として優秀な部下を惹きつけたのでしょう。
まとめ
正反対の生い立ちを持つ2人が争ったトップの座。最終的には劉邦が漢王朝の初代皇帝となりました。劉邦には他人を魅了する懐の深さがあり、優秀な部下がいたことが勝因のようです。
現代においても、1人で生きることは決してできません。さらに歳を重ねるごとに、部下とのコミュニケーション力を問われることもあるでしょう。劉邦のような他人を魅了する術は、現代に置いても重要な能力です。
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