徳川慶喜は29歳で将軍に就任しました。江戸時代最後の将軍で、一筋縄ではいかない問題ばかりのなか、慶喜はどのような行動をとったのでしょうか。
この記事では、慶喜が政治的に難しい局面を乗り切った方法を、戦略がテーマのビジネス書「胸アツ戦略図鑑 逆転の戦いから学ぶビジネス書」よりご紹介します。ぜひ最後まで読んで、時代の変わり目で将軍となった慶喜の決断と行動を、ビジネスにも役立ててみてください。
目次
大政奉還を受け入れるまで
徳川慶喜が将軍となり、大政奉還を受け入れるまでの流れをみていきましょう。
就任直後の厳しい政権運営
長州征伐のさなか将軍の家茂が亡くなり、戦いにはボロ負け。幕府への信頼が崩れていくなかで、徳川慶喜は将軍に就任しました。
就任に難色を示したという慶喜ですが、政治は積極的に主導します。
慶喜は敗色濃厚だった長州征伐を表明するものの、直後に出陣を取りやめにします。これは小倉城の落城を知って決断したとされ、合理的な判断ではありました。
しかし幕府の権威は落ちます。事実上の降参宣言になるからです。
幕府内外の反発だけでなく、孝明天皇が亡くなるなど、慶喜は就任したてで厳しい政権運営を迫られます。特に開港問題は難しい選択を迫られていました。海外からは「もっと早よ!」と急かされますが、国内には根強い攘夷派(外国人は絶対ゆるさない派閥)もいたのです。
開港の決断と激しい反発
開港問題に関しては、慶喜は「海外の言うことをのんで早く開港させよう」と考えていました。そこで慶喜はキーマンを落として外堀を埋める作戦をとります。そのキーマンとは朝廷のこと。
朝廷は結論をうやむやにしていましたが、慶喜が彼らに早期開港の許可を強く迫りました。
結果的に兵庫港の開港に成功しますが、各藩の実力者たちが怒ってしまいます。
慶喜は、政治を「四侯」と相談しながら決めていました。四侯とは、島津久光・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城の4人。この中で話がまとまっていない状況で、朝廷を無理やり説得した形となったからです。
特に薩摩藩の島津久光は猛反発。薩摩藩は慶喜の強引な姿勢に落胆します。「もう幕府と協力するのは無理。……それなら、やるしかねぇ!」と、軍事的なクーデターを考えるようになります。
薩摩藩の本気度は半端ありません。この勢いのまま、薩摩は長州藩や広島藩と連携して強引なクーデターを前提に話を進めていきます。
慶喜は追い込まれてゆくのです。
クーデターか大政奉還か
一方で土佐藩士たちは政治の主導役を天皇に返すこと、つまり大政奉還を目指して奔走していました。
武力行使に傾いていた薩摩ですが、ソフトな路線も検討しています。それが大政奉還です。つまり、クーデターと大政奉還という2つの路線で倒幕を考えたのです。
大政奉還なんて受け入れられないだろうから、慶喜が拒否したことを理由にクーデターをしようという計画だったという説も。
このように薩摩はクーデター路線を強めていきます。
土佐藩士たちは、苦戦しながらも大政奉還の意見をまとめて薩摩側に意向を伝えますが、薩摩からは「もう挙兵が決定した」との返答がきます。
つまり、完全にクーデター路線を走る薩摩と、大政奉還路線を行く土佐藩との分裂が決定的になったのです。
薩摩藩は倒幕の大義名分となる天皇の許可を獲得することを急ぎ、土佐藩は慶喜に大政奉還を提案することを急ぎました。
慶喜はクーデターによって幕府が倒される可能性に気づいており、大政奉還にも一定の理解を示します。
大政奉還の提案をめぐり、薩摩との駆け引きは最後まで続きましたが、最終的には薩摩も同意。1867年10月3日、慶喜は大政奉還の提案を受けます。
10月13日、京都の二条城で、大政奉還、つまり政権を天皇に返上することを発表します。約260年続いた江戸幕府が倒れ、新しい時代の幕開けとなりました。
大政奉還後の徳川慶喜
大政奉還を受け入れた後の慶喜とともに、慶喜の行動から学ぶ戦略をみていきましょう。
なぜ慶喜は大政奉還をうけいれたのか
薩摩は具体的な武力倒幕計画を練っていましたが、議論がまとまらずに出兵準備が遅れてしまいます。その間に倒幕計画は幕府に漏洩していたようです。
慶喜は倒幕計画の内容を把握して大政奉還を決断したことになります。
ではなぜ慶喜は大政奉還を受け入れようと思ったのでしょうか。
理由としては、「内戦に発展することを避ける」「幕府の衰えを認識していた」「大政奉還後も政治を主導できる確信があった」などといわれています。
慶喜の思惑通りかはわかりませんが、実際に慶喜は大政奉還後も政治に関わります。朝廷としては政権の運営を行うのはあまりにも久々で、大きな混乱が生まれていたので、経験のある慶喜が協力していくことになったからです。
政権をあっさりと手放した潔い決断だとして、慶喜への称賛も相次ぎ、新政府でも要職についてほしいといわれていたようです。
ただ、クーデター派の人々はそんな慶喜の政治力に焦り、「戊辰戦争」を起こします。この戦争で慶喜は敗れ、実権を失いました。
時代が大きく変わる難しい局面で将軍となり、圧倒的不利な状況を乗り越えた徳川慶喜。時代が違えば、名君として名を馳せていたかもしれません。
敵側の動きの把握と根回しで勝つ
政治的な対立のなか、敵側の動きの把握と根回しは怠らなかった慶喜。
大政奉還には反対も多いと見込んでいた慶喜は、あらかじめ薩摩小松帯刀や土佐後藤象二郎に声をかけ、諸藩に意見を聞く場面で大政奉還を擁護する発言をするように依頼したともいわれます。
実際に指揮を取ったのは短い期間でしたが、相手よりも先回りして勝つ戦略は、ビジネスにおいても大いに役立つことでしょう。
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