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チャンスを活かしてハンデを乗り越え将軍になった徳川吉宗

胸アツ戦略図鑑 逆転の戦いから学ぶビジネス教養
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歴代の徳川将軍の中でも名君とされる徳川吉宗は、もともと将軍になれる立場ではありませんでした。なぜその立場を覆して、将軍になれたのでしょうか。

この記事では、吉宗が補欠の補欠候補から将軍になった要因を、戦略がテーマのビジネス書「胸アツ戦略図鑑 逆転の戦いから学ぶビジネス書」よりご紹介します。ぜひ最後まで読んで、吉宗が将軍になるまでの道のりをこれからの人生に活かしてみてください。

偶然のチャンスを活かす

将軍の座からは遠い位置にいた吉宗が、いかにして将軍になったのかをみていきましょう。

紀州藩主となるチャンスを得た吉宗

徳川吉宗は1684年に紀州徳川家の徳川光貞の4男として生まれます。紀州徳川家は徳川家の分家にあたり、徳川本家の男子が断絶した場合に将軍となる権利を持ちます。

このときの吉宗には将軍になる可能性は少しあるものの、2人の兄がいた(もう一人の兄は生まれてすぐに亡くなった)ので、紀州徳川家の後継ですらない状態。言ってみれば「保険(紀州徳川家)」の「保険(後継の弟)」でした。

また当時は父だけでなく母方の身分も重要でした。母方の実家とのパイプが出世に有利になったり、藩主や将軍の座は母方の身分が決定打になったりすることもあったのです。

吉宗の母であるお由利は、将軍の母とは思えないほど謎に包まれており、かなり身分が低かったという説が有力。吉宗は生まれの時点でハンデを背負っていたと考えられます。

ただ吉宗はすくすくと成長し、身長は182センチにもなったと記録されています。当時の男性の平均身長が157センチ前後ですから、巨人ともいえる背の高さです。

フィジカルに恵まれたとしても、何より重要なのは「生まれた順番」。紀州徳川家の後継者は兄の綱教です。その綱教も亡くなってしまうのですが、それでもまだ兄である頼職がいます。

吉宗は地方のいち大名として過ごすことになるかと思いきや、その頼職も亡くなってしまいました。
1705年、吉宗のもとに紀州藩主の座が転がり込んできたのです。

それほど当時は健康に生きることが難しかったのでしょう。運動や散歩を好み、質素な食事を心がけていたという吉宗。規則正しい生活がフィジカルの強さを支えていたのかもしれません。

中央政治にも関わり、将軍候補となる

紀州藩主となった吉宗は、主に財政面を中心とした改革で評価されます。紀州藩主時代の約12年で大量のカネとコメの備蓄に成功。徳川将軍としても名君と名高いですが、紀州藩主としても名君だったのですね。

ただ吉宗はずっと現地で指揮をとっていたわけではありませんでした。動揺する中央政治に関わるため、紀州藩主時代の大半を江戸で過ごしていたのです。

幕府では1712年に将軍である家宣が亡くなります。その後継には家宣の4男である家継がわずか4歳で就任。将軍の補佐役である御用人たちがサポートしていましたが、内部では主導権争いによる深刻な対立が起きていました。

1716年に8歳となった家継が危篤に陥ると、血統の断絶は確実なものに。そこで将軍候補に浮上したのが尾張徳川家の徳川継友・水戸徳川家の徳川綱条・吉宗でした。
「保険」の「保険」だった吉宗は、有力な将軍候補になったのです。

ついに次期将軍として指名される

幕府首脳陣の議論の結果、吉宗は次期将軍に指名されました

将軍候補の3人には明確な決め手がなく、尾張徳川家が1番格式が高いと考えられていたことから、継友が最有力候補だとされていました。

ではなぜ吉宗が選ばれたのでしょうか。

実は吉宗は、継友を上回るべく情報収集に力を入れていました
吉宗は尾張・水戸の両家にスパイを派遣していたという記録があります。状況をしっかりと把握していたので、家継が危篤に陥った際には誰よりも早く江戸城へ参上したといわれています。

また大奥の天英院にも猛プッシュされるなど、人間関係にも抜かりはありませんでした。政治的な立ち回りも意識していたことが、将軍になれた要因だといえるでしょう。

将軍を就任するのは原則として徳川本家の長男

江戸幕府にとって後継者問題は重要なことでした。その背景をみていきましょう。

後継問題とその対策

江戸幕府においては、初代将軍である家康が息子の秀忠に将軍職を譲って以来、原則として徳川本家の長男が将軍を就任すると定められていました。

江戸幕府は、正室だけでなく側室として多くの妻を抱え、男子が生まれる確率を上げます。万が一のときには、分家にあたる尾張徳川家・紀州徳川家・水戸徳川家からも養子を迎えることにしました。

なぜなら子どもが亡くなる確率は今と比べ物にならないほど高く、男の子が生まれても、そのまますくすく成長するとは限らない時代だったからです。

4代将軍・家綱は男子を残せなかったため、5代将軍には家光の4男である綱吉が就任。綱吉の息子も早くに亡くなったために、6代将軍には綱吉の兄の息子である家宣が就任しました。

それほど自分の家の男の子に家を継がせることが難しかったのです。このような背景のなか、吉宗は保険である紀州徳川家に生まれ、さらに4男で母親の身分が低いという立場から将軍になったのですね。

なお、吉宗の母親は紀州藩士の家系の女性と系図が書き換えられた可能性があります。書き換えなければならないほど、母の身分は低かったのでしょう。

コネも運も上手に使っていこう

吉宗は、紀州藩主になるという偶然生まれたチャンスを活かしきりました。意識的に政治的な立ち回りをしていたことが将軍に選ばれた要因のだといえるからです。その点において、吉宗はなるべくしてなった将軍だといえるでしょう。

偶然を待つのではなく、コネも運も上手に使うことで次のチャンスが生まれるのです。

まとめ

名君として名高い徳川吉宗は、生まれにはハンデがありました。しかし偶然つかんだチャンスから、情報を集め、人間関係にも注力することで将軍の座を手に入れたのです。

現代においても、チャンスはいつやってくるのかはわかりません。チャンスをものにしていくためにも、常にアンテナを高く張り、どう行動すべきかを考えておきましょう。

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胸アツ戦略図鑑 逆転の戦いから学ぶビジネス教養 著者 齊藤颯人/監修 本郷和人・本村凌二

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