鎌倉幕府は源氏の血が途絶えたことにより、北条家が仕切るようになっていました。そして朝廷と鎌倉幕府の関係は大きくこじれていきます。そんななか天皇による倒幕宣言が出され、名指しされた北条義時は決断を迫られていました。
この記事では、北条義時がどのように武士たちの政権を守りぬいたのかを、戦略がテーマのビジネス書「胸アツ戦略図鑑 逆転の戦いから学ぶビジネス書」よりご紹介します。朝廷側に勝利した、義時の決断とはどのようなものだったのか、ぜひ最後まで読んでみてください。
目次
「蜜月の仲」から「嵐」の関係に変化していった朝廷と鎌倉幕府
安泰だと思われた朝廷と鎌倉幕府の関係がみるみる悪化していきます。朝廷と幕府の関係性とともにみていきましょう。
天皇の存在の大きさ
当時の天皇は日本という国の王であり、最高の権力者です。武士の時代といわれた中世や近世ですが、天皇(朝廷)の存在は大きいものでした。
たとえば源平合戦は平氏と源氏の戦いですが、裏では朝廷の影響がありました。平氏は当時の絶対権力者である後白河法皇を後ろ盾にして勢力を伸ばしましたが、その支持を失って没落します。反対に源氏が後白河法皇に接近して鎌倉幕府を成立させました。
源頼朝や徳川家康が就任した「征夷大将軍」は、天皇からその称号を授与されることで就任します。つまり称号を授与する側は天皇であり、武士はされる側であるということ。この関係は江戸時代まで続きます。
幕末に起こった戊辰戦争でも、明治天皇が味方した新政府軍が「明治天皇が認めた官軍」となったことで勝利につながったといわれています。
つまり時の権力者は天皇の公認を得て天下を取る大義名分を得るのに必死。まして天皇と戦って勝利した勢力などありませんでした。
悪化していく鎌倉幕府と朝廷の関係
鎌倉幕府3代目の将軍である源実朝は、朝廷と良好な関係を築いていました。しかし1219年、実朝が暗殺されてしまいます。実朝には息子がいなかったので、直系の将軍家は断絶。
幕府は大混乱となり、当時の朝廷のトップだった後鳥羽上皇にご子息を新将軍候補として鎌倉に送ってほしいと懇願します。
後鳥羽上皇としては、実朝さえも守れないのに息子を送ってほしいとは……と不信感をもったとされ、交換条件として土地から地頭を外すように圧力をかけました。
地頭とは土地の管理をする幕府方の役人のようなもの。地頭を外すとは、土地管理権を放棄するのと同じことです。
幕府側は悩みますが、これを認めたら幕府の支配力が揺らぐのは確実。幕府は要求を拒否しました。
これで鎌倉幕府と朝廷の関係はみるみる悪化していくことになります。
天皇の倒幕宣言と名指しされた北条義時
このころ幕府の実質的な支配者だったのは、源頼朝の義弟にあたる北条義時でした。
1221年5月15日、後鳥羽上皇は北条義時を明確に敵視する声明を出しました。「北条義時を倒す戦争で結果を出したら褒美を出す。北条に味方したら知らないよ」という旨の手紙を有力な御家人たちに送ったのです。
「鎌倉幕府を滅ぼせ」という天皇による倒幕宣言、これが「承久の乱」です。
これにより、幕府の支配力が浸透していなかった西側の武士たちの多くは朝廷に従いました。
幕府としては東側の御家人たちを集めたいところですが、有力御家人たちは争いを繰り返してきた仲であり、まったく一枚岩ではありません。後鳥羽上皇の言葉が東の御家人たちに響く可能性もありました。
名指しされた義時は決断を迫られます。
スピード感のある対応で敵より早く動く
義時はどのような決断をしたのでしょうか。幕府側の対応をみていきましょう。
義時の決断
義時はすぐに動きます。東の御家人たちに天皇の手紙が出回るのを迅速に防ぎ、5月19日には政子の邸宅へ御家人たちを集めます。
亡き頼朝の妻で、2代・3代将軍の母でもある北条政子は、御家人たちに演説をしました。「亡き夫・頼朝が朝敵を討伐したことで、あなたたちはいろいろなものを手に入れた。その恩は山より高く、海より深いはず。幕府につくか朝廷につくか、今すぐこの場で決めなさい!」
御家人たちは政子に賛同します。ただ、御家人たちはこの演説だけでなく、武士の時代を守りたいという思いもあってのことだったでしょう。そもそも義時の迅速な対応によって、御家人たちが朝廷に心を動かす時間を与えませんでした。
幕府軍はその勢いのまま、敵が態勢を整える前に決着をつけようと進軍を開始します。第一報からわずか1週間後の5月22日に出撃。名だたる御家人たちが軍勢に加わり、19万にものぼる軍勢が京都を目指します。
予期せぬスピードと大群で攻められようとしている後鳥羽上皇は、相当焦ったはず。結局、朝廷側は十分な軍勢を集められず、6月15日には敗北を喫しました。
日本のトップである朝廷側に、幕府軍が勝利を果たしました。まさに歴史を変えた一戦。武士たちの政権は守られ、以後600年を超える武士たちの時代の礎になりました。
作戦より、行動!とにかくすぐ動く
義時は「とにかくすぐ動く!」という決断をしました。相手よりも早く動き、敵が態勢を整える前に進軍を開始。相手が朝廷であっても、ためらいなく動いたスピードが最大の力となったのではないでしょうか。100の作戦より、1つの行動が勝利を呼び寄せたのです。
この後、天皇や朝廷の影響力は弱まっていきました。そして北条氏は着々と権力を高めていくのです。
まとめ
後鳥羽上皇から名指しされた北条義時は、とにかくすぐ動く!というスピード感のある対応で朝廷に勝利しました。このスピードが最大の力となったようです。
戦略がテーマのビジネス書「胸アツ戦略図鑑 逆転の戦いから学ぶビジネス書」では、古代から現代に至るまでに起きた戦いを分析・考察し、先人たちの生み出した戦略やその生きた道筋を紹介しています。ぜひ本書を手に取って、私たちの人生にも通じる戦略をこれからの時代のヒントにしてみてください。