圧倒的な兵力差がありながら、厳島の戦いで見事な逆転勝利をした毛利元就。こののち中国地方最強の戦国大名となっていきます。
この記事では、元就が苦境を味方にして大逆転した発想を、戦略がテーマのビジネス書「胸アツ戦略図鑑 逆転の戦いから学ぶビジネス書」よりご紹介します。ぜひ最後まで読んで、毛利元就の厳島での戦い方からみえる戦略を考察してみましょう。
目次
状況を打開するための大バクチ
毛利元就が中国地方最強と呼ばれる戦国大名となっていく道筋をみていきましょう。
防芸引分!毛利元就と陶晴賢は敵対する関係に
毛利元就と陶晴賢は、中国地方最強を誇った大内氏のもとで力を伸ばしていました。しかし1542年、大内義隆が尼子氏討伐でまさかの大敗を喫したことにより事態が動きます。
もう大内に力はないと考えた陶晴賢がクーデターを決意。義隆を自害に追い込み、晴賢が新リーダーになったのです。
しかし晴賢は、大内氏の配下にあった国々の統治に苦戦。このとき元就は新リーダーである晴賢に従ってはいましたが、チャンスとばかりに動き始めます。
元就は、大内氏から尼子氏に寝返った備後国(現在の広島県東部)の勢力を滅ぼし、尼子氏を出雲国まで後退させます。
これは晴賢にとってもありがたいことだったはず。しかし結果的に両者の関係が悪化する一因になってしまいます。なぜなら元就の勢力が成長しすぎて晴賢の地位を脅かす存在となっていたからです。
晴賢は自らのへの服従の証として、元就に兵を出すように要請します。
兵を出すのは、このまま晴賢に従い続けるということ。毛利家では従うかどうかで議論が分かれたといいます。元就は態度を保留としていましたが、家臣らが晴賢と決別する動きをしたことで「防芸引分」の決断を下しました。
防芸引分の「引分」は決裂という意味。「防芸」は晴賢の本拠地である周防国(防)と元就の本拠地である安芸国(芸)から取られた言葉。
元就は晴賢との断交を決意したのです。
圧倒的不利な状況の中、準備を整えていく元就
元就軍と晴賢軍とでは圧倒的な人数差がありました。しかし元就は着々と準備をすすめていきます。
元就は、まず安芸国(現在の広島県西部)西部にいる陶勢力の打倒を目指します。ここでは百姓や地侍たちの反乱などがあり簡単ではなかったものの、結果として元就は勝利します。敵勢力と戦っていた陶晴賢も余裕がなかったのです。
この戦いを機に、両者の存亡をかけた戦いが始まります。
元就は、兵力では晴賢に大きく劣ります。そこで決戦の地を厳島にすることを考えます。厳島は狭いため、大軍の陶晴賢と戦うにはうってつけだと考えたのでしょう。小規模な宮尾城という防衛拠点を築いて、そこへ晴賢を誘導した説もあります。
瀬戸内海で活動していた村上水軍(海賊衆)と交渉して戦いに参加してくれる約束を取り付けるなど、元就は着々と準備をすすめていきます。
また晴賢の重臣である江良房栄を罠にかけ、内通を疑った晴賢に討たせるなどの政治的な戦略も仕掛けました。
事前の準備では元就が一歩リードしていたようですが、晴賢軍2万に対し元就軍は4千。依然として圧倒的に不利な状況であることに変わりはありません。
中国地方で最強の戦国大名へ
1555年9月21日、元就の予想通りに晴賢は厳島を攻め始めました。毛利方の防衛拠点である宮尾城を攻撃します。
元就は宮尾城で敵の攻撃を食い止めつつ、後ろから村上水軍に参加してもらい挟み撃ちする作戦を考えていました。しかし、村上水軍は来ません。そのまま6日が過ぎ、元就は焦りを見せたようです。
村上水軍は元就に勝ち目はないだろうと判断したのかもしれません。ただ結局のところ村上水軍が救援にきたかどうかは今でもわかっていないのです。いずれにせよ、毛利元就の圧倒的不利な状況は変わらないでしょう。
このままでは負ける。状況を打開するため、元就は賭けにでます。
午後6時、元就は海を渡って厳島への上陸を試みます。秋ごろの午後6時といえば日は暮れているころ。さらにこの日は激しい暴風雨にも見舞われていたといい、移動するには非常に厳しい状況です。
だからこそ敵にも気づかれにくく、千載一遇のチャンスだととらえたのかもしれません。
元就軍は夜間に厳島の北東部へ着陣し夜明けを待ちます。元就は乗ってきた全ての船を陸に戻し、退路を絶ったともいわれています。
翌朝、元就軍は一斉に攻撃を開始。本隊は晴賢軍背後にある山の頂上、小早川隆景が率いる別働隊は正面から攻撃をしました。
元就は瀕死状態だと考えていたはずの晴賢にしてみれば、朝起きたらいきなり前後に元就軍があらわれたということ。予想外の展開に晴賢軍はたちまち大混乱。狭い地形で身動きが取れない晴賢軍はそのまま総崩れとなります。
晴賢自身は島から逃れられず、自害を余儀なくされました。
この戦いを乗り越えた元就は、中国地方最強の戦国大名と躍進していきます。
厳島の戦いから飛躍していく毛利家
近年、再評価されている厳島の戦いと毛利家についてみていきましょう。
毛利氏のその後と厳島の戦い
厳島の戦いは近年に再評価が進んでおり、圧倒的な兵力差や暴風雨の夜の大逆転は史実ではないという見方もあるようです。後世の軍記物によって成立したイメージや、毛利家自身が意図的に広めていったのではないかという研究もあります。
毛利家が意図的に広めた理由としては、関ヶ原の戦いによる敗北が大きかったようです。
厳島の戦いののち、元就の後継者である隆元が家を取り仕切り、小早川隆景・吉川元春とともに「毛利両川体制」として毛利家は飛躍をつづけます。秀吉の時代には隆元の息子である毛利輝元が五大老の一角にまでなりました。
しかし輝元は関ヶ原の戦いで西軍の総大将となるも、家康率いる東軍に敗戦し、領地を大幅に削減されてしまいます。
存亡の危機に立たされた毛利家は、一族の結束や調略の重要性を説こうと、先祖である元就の活躍を誇張したのかもしれません。
自分にとってありえないことは、相手にとってもありえないこと
暗い暴風雨の中、海を渡るのは非常に厳しい状況。だからこそ敵にも気づかれにくく、千載一遇のチャンスでした。
自分にとってありえないことは、相手にとってもありえないということ。晴賢の敗因には、大軍であるがゆえのおごりもあったかもしれません。しかし元就は、ありえない行動で苦境を味方にしました。
まさかの選択から、大逆転が生まれたのです。
まとめ
中国地方で最強の戦国大名として名を馳せた毛利元就。圧倒的不利な戦いを逆転の発想で乗り越えたことが躍進のはじまりでした。ありえない選択から生まれた大逆転は、私たちにも通じるものがあるかもしれません。
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