ハワイから帰国。
故郷の鹿児島から花の都大東京へ。
“なんとなく”の違和感に気づいたとき、自分の本音が見えてきた。
目次
はじめに
この記事をご覧いただき、ありがとうございます。吉田実代と申します。
現在36歳、9歳の娘と共に2年前からニューヨークに移住しました。世間では“闘うシングルマザー”と呼ばれることが多いですが、私はただ、自分の人生に正直に向き合い続けてきただけです。女子ボクシングで世界2階級制覇というタイトルを手にしましたが、そこに至るまでの道のりは決して順風満帆ではありませんでした。
この文章を通じて、私がどのようにして「何者でもない自分」から「世界チャンピオン」へと成長していったのか、少しでも伝えられたらと思います。
帰国、そして故郷・鹿児島へ。
20歳の夏の終わり、私は海外生活を終えて鹿児島に帰ってきた。
人生初の大冒険を終え、一回りも二回りも大きくなって帰国した。英語力や格闘技の技術よりも、最大の収穫は「自己成長」だった。まるでドラゴンクエストのようにHPを管理しながら経験値を積み、成功のたびにレベルアップの音が聞こえるような毎日。異国の地で積み上げた小さな成功体験は、20歳の私にとって何よりも貴重な財産になった。
鹿児島ではキックボクシングジムを探して練習しながら、ハワイで学んだネイルやマッサージを友人限定で施術していた。
数ヶ月が経った頃、「“なんとなく”このままじゃダメだ」と感じるようになった。
楽しくて住み慣れた故郷。でも、ずっとここにいて、ただ年を重ねていく自分がふんわりとイメージできてしまった。そのイメージに違和感を覚えた私は、自分が本当にやりたいことを改めて考えた。
――私はやっぱり、格闘家として上を目指したい。
そう考えが固まったとき、私は上京して本格的に格闘家としての道を歩むことに決めた。
死ぬほど憧れた、花の都・大東京。
キックボクサー時代 テリー伊藤さんの番組、東京1人暮らし娘での収録で
すぐに鹿児島から夜行バスで大阪へ向かった。
朝方、大阪のターミナル駅に着き、ファーストフード店でオレンジジュースを注文したはずだった。
でも、私の鹿児島弁が強すぎて、まさかの「オレンジジュース」が通じなかった(笑)。
ショックだった。道を聞くのも怖くなってしまった。関西のノリにビビってしまったのだ(笑)。
そのとき思った。
「“なんとなく”肌感覚的に、私は関西より東京だな。」
大阪のジムを見ずに、そそくさと東京へ向かった。
かなりセンシティブな決断だったけど、見ているあなたに伝えたい。
センシティブでも世界チャンピオンになれるし、英語が話せなくてもNYに住めるのだ。
アマチュアキックボクシング、そしてプロデビュー。
僅か2戦目目で既に56戦のキャリアのあるwindy智美選手に番狂わせで勝ったトーナメント戦
東京では、友人がジム見学に付き添ってくれた。
有名な女子選手がたくさん在籍するジムで体験レッスンを受け、TVで見た選手たちが本気で練習している姿を見て「これが東京か」と実感した。
いくつかのジムを見た結果、「TARGET」という那須川天心選手も所属していたジムに入会を決めた。同郷の先輩・薩摩さざ波選手もいて心強かった。
そこでは、私の強すぎる訛りが原因で「独り言が多い人」だと勘違いされ、たまに悪意のない無視をされることも(笑)。
東京で生きていくには標準語も必要だと学んだ。
そして、アマチュアキックボクシングのデビュー戦から4戦をこなした。
プロという目標があったから、アマチュア時代は「結果よりも経験を積むこと」が大事だった。
初めての減量では、57kgから49.5kgまで落とした。
先輩たちのアドバイスを聞きながら試行錯誤し、時には「あしたのジョー」ばりの過酷な減量も経験した。
結果は4戦3勝(1KO)1敗。アマチュアを卒業し、プロデビューのオファーが舞い込んだ。