ハワイから帰国。故郷の鹿児島から花の都大東京へ。アマチュアキックボクシングデビューを果たし、スカウトされて3ヶ月でMMAプロデビュー。
キックボクシング、シュートボクシング、ムエタイ、ボクシングを経て、妊娠、出産。
それでも好きにこだわった私の30代がスタート。
目次
はじめに/ご挨拶と自己紹介
この記事をご覧いただき、ありがとうございます。吉田実代と申します。
現在37歳、10歳の娘と共に2年前からニューヨークに移住しました。世間では“闘うシングルマザー”と呼ばれることが多いですが、私はただ、自分の人生に正直に向き合い続けてきただけです。女子ボクシングで世界2階級制覇というタイトルを手にしましたが、そこに至るまでの道のりは決して順風満帆ではありませんでした。
この文章を通じて、私がどのようにして「何者でもない自分」から「世界チャンピオン」へと成長していったのか、少しでも伝えられたらと思います。

自分ってどれだけ強いんだろう? MMAからキックボクサーを経てそしてプロボクサーへ
21歳でMMAでプロデビューし22歳でキックボクシングやシュートボクシングのいわゆる立ち技系の格闘技に転向
戦歴はMMA 1勝1KO2敗
立ち技系格闘技は14勝10勝2KO4敗
ラスト2試合は、地元鹿児島に凱旋しグラジエーターバンタム級王者を獲得
ラストの試合はカンボジアにて日本対カンボジアの対抗戦
勝ったらボクシングの道へ進みますと所属ジムには事前に話し試合に挑み
見事に有終の美を飾る事が出来た。

カンボジアでの試合は世界数十ヶ国に放映され、カジノホテルの野外スタジアムで盛大に行われた
そして25歳で格闘技のキャリアを捨て新しくプロボクサーの世界へ飛び込んだ。
日本では格闘家とプロボクサーを兼業することは禁止である ⚠︎アメリカはOK
格闘家としても恵まれたキャリアだったかもしれない。
しかし格闘技は団体が乱立している為、中々希望の相手と試合が出来なかった
そして感じていたこと
シンプルに私って実際どれくらい強いんだろう。。。
25歳の私はこの時がキャリア絶頂期と感じていた。
今37歳だが、今が一番強い。笑
ただ、その頃の私は30歳までに引退する予定だったので、それならば1番自分が強い時期にプロボクシングの世界へ挑戦したくなったのだ。
それには理由があった。ボクシングの五階級制覇した伝説の世界チャンピオン藤岡奈穂子さんと
パンチ強化のために手合わせする機会を頂いたからだ。
衝撃的な強さだった。知れば知るほど、ボクシングの奥深さを知り、パンチの強化ではなくボクシングそのものの魅力を取り憑かれたのだ。
その時代のボクシングは日本チャンピオンは無くてアジアチャンピオン、世界チャンピオンしか居ない
団体も日本に一つだけ、ランキングも非常にわかりやすい。
最終章はボクシングでどこまでいけるかに決めた。
ボクシングデビューからの予期せぬ事態、、、

25才、私は念願のボクシングデビューを果たした
なんとか勝つ事は出来たけれど、全く違う競技でキックボクサーがボクシングの試合に出てるみたいと応援に来てくれた方に言われた。
ほろ苦いデビュー戦だった。
そこから毎日の練習の日々。とてもキツかった。今思えば精神的にも未熟すぎた。
忘れ物が多かったり、計画性がなかったり
会長に何度も本気でやっているんだから本気を示してくれと言われた。
本気のつもりなんだけど、、想像以上にボクサーは厳しい世界だった。
そんな中、当時付き合っていた彼が居て
私は浮かれていた。唯一の癒しの存在だった。
その中で想定外か出来事が起きた。
妊娠が発覚、、、、
本来ならば喜ばしい出来事も、強さを求めて来たはずなのに、その計画性のなさ、自分がだらしない人間なんだと、、落胆した。
もちろん気をつけてはいたし、想定外の事態にパニックになった。
彼と話して、エコーを見た時にこの命を自分の勝手な理由で無くすことに違和感を感じた。
彼も同じ気持ちで結婚することになった。
あれだけ頑張ると周りに宣言し
厳しくも大きな期待を寄せてくれていたジムの皆に合わせる顔がなかった。
ジムに挨拶に行き
もうケジメをつけてボクシングの世界とは関わるのを辞めようと思い静かにひっそりと妊娠生活を過ごした。
未練もあったが忘れなくちゃと思い、ボクシング関連のニュースは見ないようにしていた。
この子を幸せに出来るように立派なママになるんだと誓った。
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本当の気持ちに気づいた私
27歳の誕生日を迎えた2日後に娘のみいなが誕生した
妊婦中も出産もトラブル続きで大変だったが
産まれた瞬間は、その全てがどうでも良くなるような、なんとも言えない感動に包まれて涙が止まらなかったことを覚えている
自分のお腹から命が誕生するという神秘的な感動だった
所属の会長にすぐに報告した所、喜んでもらえて一安心した
夫もMMAの選手でボクシングジムに通っていた為
赤ちゃんを見せに行きたいと連絡したら
快く受け入れて下さった
ボクシングジムの会長に娘を見せに行った時に
衝動的に口から出た言葉があった
ボクシングのライセンスを更新したいのですが、、、、
自分でも、図々しさに呆れたが
咄嗟に言葉にしてしまった。。。
やはり未練があったから、ライセンスだけ更新すればプロテストを受け直すことなく
プロボクサーとして一年は居られるからだ
会長の返事はOKだった。
ここから怒涛の追い上げを見せて世界チャンピオンになるのだが
この会長、私が所属していた恵比寿K’sBoxの加山会長が第二の吉田実代を作ってくれたと思っています
とても厳しかったけれど、親のような愛情で向き合ってくれた。私のダメな所をとことん向き合ってくれたお陰で今の私があります
そしてジムに通う日々が始まった
最初は娘が保育園に通う間に通った
当たり前だが、周囲の目は冷ややかだった
昔の栄光は消えてなくなりすっかり私はトラブルメイカーだった
ジムに入るまでにお腹が痛くなったり心拍数が上がったがそれでもジムで練習したかった
腹筋すらも出来なくなった身体、出産した人なら誰もが経験する少し力を入れただけで起こる尿漏れ
前の私なら逃げ出していただろうが
ボクシングをやりたいという気持ちが強すぎて毎日毎日ジムに通った
当たり前だが、リングには入らせてもらえなかったし
自分でも絶対に上がる事はしなかった
ケジメとして、、、、
そんな中、一本の電話がジムに入る
私に沖縄での試合のオファーが来たのだ
ジムの関係者で話し合いが行われて
1人のトレーナーが全責任を持つから試合をやらせたいと言ってくれて試合をするか尋ねられた
もちろんやらせて下さいとそして感謝の気持ちを伝えた
それと同時に一度でも負けたら引退すると心に決めた
カムバックしたのをボクシング界が知り、オファーが絶えず、1年で5試合こなした
1試合ずつ信頼を取り戻した私は
以前とは別人になった
ジム一丸となりサポートしてくれた
母としての自覚も芽生え、子育ての日々が娘が私を成長させてくれた

踏み出した一歩一歩が道となる

そこから連戦連勝一敗だけしたが
もう引退の考えは私からも周りからもなかった
復帰から1年半で初代バンタム級チャンピオンになり
2年でアジアチャンピオン
3年目に念願の世界チャンピオンになった
その間に離婚を経験したり、ずっと支えてくれたトレーナーの事故死を経験したりして
何度も挫けそうなこともあった
しかしその都度、そこに居てくれた方々のサポートでなんとか一歩を踏み出す事が出来た
私は失敗も数多くしていている
やらかすタイプの人間だ
でももっともっと成長したかった
カッコイイ人間になりたくて
変わりたい 強くなりたいと心から願った
ピンチをチャンスに変えられたのは
勇気を出して一歩踏み出したからだ
自ずと一歩が道となり未来へ繋がった
水前寺清子さんの歌で三百六十五歩のマーチという名曲がある
大好きなフレーズがある
しあわせは 歩いてこない だから歩いてゆくんだね
一日一歩 三日で三歩 三歩進んで二歩下がる
人生はワンツーパンチ 汗かきべそかき 歩こうよ
あなたのつけた足あとにゃ きれいな花が咲くでしょう
腕を振って 足をあげて ワンツーワンツー
休まないで 歩け
水前寺さんも言うように、三歩進んでも二歩下がるし、汗もベソもかくしワンツーパンチ喰らうこともあるけれど
休まないで歩けば一歩は必ず進むから
人生右肩上がりになっていくんだよと
勝手に解釈しております。笑
私の人生の応援ソングです。是非聴いてみてください。

吉田実代 (Miyo YOSHIDA) NY在住 世界王者プロボクサー / 9歳の娘を育てる「闘うシングルマザー」 鹿児島県鹿児島市出身 / 沖永良部島観光親善大使 主な戦績 ・初代 日本女子バンタム級王者 ・第6代 OPBF東洋太平洋女子バンタム級王者 ・WBO女子世界スーパーフライ級王座(第5代・第7代) ・IBF女子世界バンタム級王座(第8代) 活動 ・社会貢献(ゴミ拾い、募金、児童養護施設訪問 など) ・講演&ボクシングレッスン(日本サッカー協会「夢先生」、NY日本人学校 ほか) これからの夢 ・主要4団体の全ベルト制覇 ・本の出版 ・「Miyoフェス」開催 Instagram:miyo_yoshida_ X:MiyoBluedog YouTube:吉田実代チャンネル ぜひフォロー&応援よろしくお願いします!