清少納言と紫式部は同時代に生き、しばしばライバル関係にもたとえられます。実際はどうだったのでしょうか。
この記事では、清少納言と紫式部の関係と彼女たちの想いを、先人たちの言葉を「いまを生きる私たちの感覚」に合わせた「エモ訳」と超美麗なイラストの『いとエモし。超訳日本の美しい文学』よりご紹介します。ぜひ最後まで読んで、千年前に生きた女性たちの切なさや想いに触れてみてください。
目次
清少納言と紫式部はライバル関係?
清少納言と紫式部の生きた時代や、それぞれが仕えた主人についてみていきましょう。
定子と彰子
清少納言と紫式部。文学に疎くてもこの名前は知っているという人は多いのではないでしょうか。清少納言は「枕草子」の作者で、いまでいうところのエッセイスト。紫式部は「源氏物語」の作者で、いわば直木賞作家のようなものでした。
この2人はライバル関係にたとえられるものの、実際は一度も顔を合わせたことがないと言われています。
彼女たちは同時代に生きていましたが、それぞれ別の主人に仕えており、宮中にいた年代も微妙に違うからです。
清少納言は藤原定子の女房(付き人)です。定子の父は藤原道隆であり、弟の藤原道長と権力争いをしていました。そのような状況で定子は一条天皇に嫁いだのです。
紫式部は藤原道長の娘である藤原彰子の女房(付き人)。彰子は政治的には定子と敵対関係にありましたが、紫式部が宮仕えを始めた頃にはすでに定子は亡くなっており、清少納言も宮中を去った後でした。
紫式部の心のつかえ
紫式部がいた当時の宮中には、定子や清少納言の姿はありませんでしたが、「枕草子」が残されていました。枕草子は貴族たちのあいだで大ブームになっていたようです。
紫式部は人気作家という鳴り物入りで、女性ばかりの職場である宮中にやってきました。働き始めた当初は居心地が悪かったのか、何ヶ月も出社拒否になっていたようです。だんだんと処世術を身につけていき、仕事の一環として書いた日々の記録が「紫式部日記」です。
紫式部日記には、清少納言への悪口も書かれています。ただの感情的な攻撃にも見えますが、ミーハーな貴族たちに「もう定子はいない」、つまり彰子の時代だと伝えたかったのでは? という見方もあります。
自分の主人である彰子を応援することで、自分の「心のつかえ」をとろうとしていたのかもしれませんね。
藤原定子に仕えた清少納言
清少納言が仕えていた藤原定子とともに、清少納言が枕草子を書いた背景について見ていきましょう。
愛の果て
夜もすがら 契りしことを 忘れずは 恋ひむ 涙の色ぞゆかしき
もしも私が死んだら。
あなたは
覚えていてくれるかな?
ともに過ごした時間を。
私のことを。
もしもそうなったら、
あなたがどーんな泣き顔を
するのか、ちょっと楽しみだな。
私は、忘れないからね。
ありがとう。
定子は第三子を出産直後に24歳で亡くなります。この歌は、自身の死を予感して一条天皇に向けて遺したもの。定子と一条天皇は典型的な政略結婚でしたが、相思相愛の夫婦でした。当時としては異例の「純愛」で結ばれたふたりだったのです。
定子の死後、一条天皇は定子の妹と関係を持つなど、最後まで引きずり続けた様子。それは依存なのか、愛なのか、私たちにはわかりません。
窮地に陥る定子
政略とは関係なく本気で愛し合っていた定子と一条天皇。しかし、定子の父である藤原道隆が病気で亡くなり、兄の伊周も失脚してしまいます。後ろ盾をなくした定子は出家せざるを得なくなりますが、一条天皇は超イレギュラー対応をして定子を無理やり呼び戻しました。殺伐とした宮中で2人を繋いでいたのは、もはや愛だけ。それほど2人の絆は深かったのでしょう。
清少納言が「枕草子」を書きはじめたのはこの頃だったと言われています。
枕草子では、「ほんと定子さまってかわいいの!」を連発。先行きが暗い状況などみせることなく、とにかく明るく、宮中での出来事や小粋なやりとりをつづっています。
人気作家・紫式部はスカウトされて宮中に
紫式部とその主人である藤原彰子について見ていきましょう。
その先
一声も 君につなげむ 時鳥 この五月雨は 闇にまどふと
ほととぎすよ。
あの子に言伝をお願い。
「私はいま、闇にまどっている」と。
いつ止むのかも
わからない雨にうたれながら。
この雨は、身にこたえる。
この雨は、心が凍える。
紫式部が使えた藤原彰子の歌。息子である後一条天皇が崩御した(亡くなった)ときのものです。「闇にまどう」とは、「子供のことで悩む」という意味で、紫式部の曽祖父の歌にかけています。
藤原彰子の愛
藤原彰子は12歳で一条天皇に嫁ぎました。しかし、一条天皇は「定子ラブ!」であり、彰子は一条天皇とうまくいっていませんでした。そんななか、定子が亡くなってしまいます。このとき彰子は14歳にして一条天皇と定子の子を預かり、育ての母になったのです。
その後、彰子が18歳のときに紫式部が宮中にやってきます。すでに「源氏物語」の作者として有名だった紫式部は、藤原道長にスカウトされ彰子の女房(付き人)として宮中に入ります。
彰子は21歳の時に一条天皇の子を授かりました。その様子は、「紫式部日記」にも書かれています。
一条天皇が病をわずらい、後継者問題が浮上すると、誰もが彰子の子・敦成親王を推しました。ところが彰子だけが定子と一条天皇の子・敦康親王を推薦して、父である藤原道長に直訴。自分の意思と愛を示したのです。
しかし流れは変わらず、彰子の子・敦成親王が後一条天皇として即位。以後、彰子は宮中で実力を発揮します。
紫式部・和泉式部・伊勢など才能のある女性たちをサポートし、文学や和歌のあたらしい世界を切り開いていきました。
短命の時代にありながら、彰子は87歳まで生き、家族たちの旅立ちを見守っていくのです。
受け継がれる想い
千年前、さまざまな理不尽に巻き込まれながら、彼女たちは自分の愛を貫きました。命のバトンをつなぐかのように、定子から彰子へ、清少納言から紫式部へ。そうして現代までつながってきた和歌や文学は、彼女たちが「ここにあった」という魂の系譜であり、それをいま私たちは読んでいるのです。
まとめ
清少納言や紫式部が生み出した和歌や文学は現在までつながっています。千年前に生きた彼女たちが感じたことを、いまの私たちも感じているのでしょう。
先人たちの言葉を「いまを生きる私たちの感覚」に合わせた「エモ訳」にし、超美麗なイラストで視覚化した『いとエモし。超訳日本の美しい文学』では、先人たちが作品に込めた「エモパワー」を強烈に感じられます。切なくなったり、勇気がわいてきたり、なんともいえない胸いっぱいな気持ちになったり。心のままにパラパラとめくり、言葉にできない「何か」を存分に味わえる本書をぜひ手に取ってみてください。
いとエモし。 超訳 日本の美しい文学
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定価:1,480円(税込1,628円)