2013年に刊行した書籍『覚悟の磨き方 ~超訳 吉田松陰~』(超訳者:池田貴将)が、発売から10年以上が経過した今、再び売上を急激に伸ばしています。
2025年書籍売上年間ランキングでは、日販ビジネス書4位、トーハンビジネス書6位にランクインするなど、12年前に発売した書籍が、ここ1〜2年の間に再びSNSを中心に話題になっています。ヒットを記念して、まえがきと本文の一部を抜粋して無料公開します。
目次
書籍まえがきより 〜誰よりも熱く、誰よりも冷静だった天才思想家〜
かつて吉田松陰ほど型破りな日本人はいただろうか。
時代は、鎖国のまっただなか。
日本がかたくなに孤立状態をつづける一方で、アジアは次から次へと欧米諸国の植民地になっていた。
あの強かった清(中国)までも、西洋化の巨大な波に呑まれて、諸外国に道をゆずりながら生き延びようとしていた。
日本にも転機がやってくる。一八五三年、ペリーが黒船を連れてやってきたときのことである(この事件から明治維新までを〝幕末〟という)。
開国させるためには、圧倒的な技術力の違いを実際に見せつけるのがいいだろう。
そう考えたペリーがいきなり大砲三発を威嚇発射すると、江戸(東京)はまさに天地がひっくり返るような騒ぎになった。そのとき江戸幕府と言えば、すっかり沈黙してしまっている。
刀じゃ大砲に勝てるはずがない。日本はもうおしまいだ。武士から農民まで誰もがそう確信し、眠れない夜がつづく中でただひとり、西洋を追い抜いてやろうと意気込んでいる若者がいた。
吉田松陰、二十五歳。
兵法の専門家であった彼は、しばらく「どうやって西洋を倒そうか」虎視眈々と作戦を立てていた。だが実際に黒船の大砲を目にすると、急にこんなことを思いはじめた。
これは勝てない。
松陰の頭の切り替えは早かった。
いくら敵意を燃やしたって、日本を守ることはできないのだから、むしろ外国のやり方を学んだ方がいい
発想を逆にしてしまったのだ。
鎖国である。海外渡航などすれば、もちろん死刑である。
だが松陰はそんなことは気にしない。
翌年、再び黒船がやってくると、「日本にとって今なにが一番大事なのか」を明
らかにし、すぐさま思い切った行動に出た。
松陰はこう言い残している。
今ここで海を渡ることが禁じられているのは、たかだか江戸の二五〇年の常識に過ぎない。
今回の事件は、日本の今後三〇〇〇年の歴史にかかわることだ。くだらない常識に縛られ、日本が沈むのを傍観することは我慢ならなかった。
彼はすばらしい戦略家だったが、こういうときはろくに計画も立てなかった。「動けば道は開ける!」とばかりに、小舟を盗むと、荒波の中をこぎ出していって、そのまま黒船の甲板に乗り込んだ。
突然の東洋人の訪問に、アメリカ艦隊は驚いた。
無防備な侍が、法を犯し、命がけで「学ばせてくれ」と挑んでくる。その覚悟と好奇心の異常ぶりを恐れたのだ。同時に、日本の底力を思い知った。
そして吉田松陰のこの小さな一歩が、後の「明治維新」という大きな波を生むことになる。
松陰は生まれたときから空気のように存在していた「しきたり」を破り、行動をもって自分の信念を貫くことをよしとした。
そんな情熱家である一方、松陰は大変な勉強家でもあった。
旅をしながらでも本を読み、牢獄に入れられても読みつづけた。
それもただ黙々と読むのではない。人物伝を読みながら、その人物の清い態度に号泣し、軽率な行動に激怒し、華々しい活躍に踊りあがった。
頭ではなく、感情で学ぼうとする男だった。まるで子どもである。だからこそ学んだことが、ストレートに行動へつながったのかもしれない。
密航で捕まった後の松陰は、江戸から故郷の長州藩(山口県)萩へと送られた。
そしていつ出られるかもわからない牢獄の中で、松陰はそこにいる囚人たちを弟子にすることになる。
すでに何十年と牢獄の中にいる人もいた。生まれたときから、すでに生きる希望を失っているような人も多かった。だが、松陰は身分や出身によって人を選ぶことなく、一人ひとりから才能を見つけようと親身になった。
仮釈放されると、松下村(まつもとむら)という小さな村で塾をはじめることになる。これが後に伝説となったかの「松下村塾」である。
当時、長州藩には「明倫館」という藩校があり、そこには藩から選ばれた優秀な武士の子どもが集められ、一流の教師がついて、一流の教科書が用意された。
だが下級武士の子どもが集まる松下村塾に教科書はなく、まともな校舎すらな
かった。
だから教科書は夜を徹して、弟子といっしょに書き写し、校舎も弟子たちとの手作りで最低限のものをこしらえた。
十畳と八畳の二間しかない塾。
そこで、吉田松陰が教えた期間はわずか二年半である。
そんな松下村塾が、かの高杉晋作や伊藤博文(初代総理)をはじめとして、品川弥二郎(内務大臣)、山縣有朋(第三代/第九代総理)、山田顕義(國學院大學と日本大学の創設者)を送り出した。結果的には、総理大臣二名、国務大臣七名、大学の創設者二名、というとんでもない数のエリートが、「松下村塾出身」となった。
こんな塾は世界でも類を見ない。
松陰はなぜこんな教育ができたのだろうか。松陰は「いかに生きるかという志さえ立たせることができれば、人生そのものが学問に変わり、あとは生徒が勝手に学んでくれる」と信じていた。
だから一人ひとりを弟子ではなく友人として扱い、お互いの目標について同じ目線で真剣に語り合い、入塾を希望する少年には「教える、というようなことはできませんが、ともに勉強しましょう」と話したという。
教育は、知識だけを伝えても意味はない。
教える者の生き方が、学ぶ者を感化して、はじめてその成果が得られる。
そんな松陰の姿勢が、日本を変える人材を生んだ。
松陰はただの教育者では終わらない。
幕府の大老・井伊直弼(いいなおすけ)と老中・間部詮勝(まなべあきかつ)のやり方に憤慨した松陰は、長州藩に「間部を暗殺したいので、暗殺に使う武器を提供してほしい」と頼み込んだ。驚いた長州藩は、また松陰を牢獄に入れることになる。
次第に過激さを増していく吉田松陰。
それに対し、松下村塾の弟子たちは血判状を出して懸命に止めようとしたが、松陰はさらにその弟子たちとも縁を切ってしまう。
そしてある疑いで幕府の役人に取り調べを受けたとき、松陰は聞かれてもいない「間部詮勝の暗殺計画」を自分から暴露する。
当時、一介の武士が幕府の役人に意見ができる機会はめったになかったため、暗殺計画を告白することで、自分の考えを伝えるチャンスを得ようとしたのかもしれない。
だが結果的にその機会を得ることはなかった。松陰は捕まり、かの「安政の大獄」の犠牲者になった。
吉田松陰はこうして三〇歳でその生涯を閉じる。
若すぎる死。
一方で、松陰の志は生き続けた。
松下村塾の弟子たち、そしてその意志を継いだ志士たちが、史上最大の改革である明治維新をおこし、今にいたる豊かな近代国家を創り上げたのだ。
英雄たちを感化した、松陰の教えはシンプルで力強い。
学者でありながら、てらいや見栄、観念的なことをとことん嫌ったからだろう。
逆境にあるときほど、そんな思想が大きな力になることもある。
本当に後悔しない生き方とは一体なにか。
この本を媒介として、ともに考えられたら嬉しく思う。
池田貴将
〜書籍 本文より〜
懇願
お願いです。本当にお願いですから
たった一回負けたくらいで、やめないでください。
そこに未来がある
自分の心がそうせよと叫ぶなら、
ひるむことなく、すぐに従うべきだと思います。
得を考えるのが損
結果はさまざまです。
全力を出せたかどうか、それだけを振り返りましょう。
正解なのは、それだけですから。
迷わない生き方
最もつまらないと思うのは
人との約束を破る人ではなく、
自分との約束を破る人です。
自分にしか守れないもの
法を破ったら、罪をつぐなえますが、
自分の美学を破ってしまったら
一体誰に向かってつぐなえますか。
丸くなりたくない人へ
今までの常識を無視しようとする人。
周囲から止められても、なかなかあきらめようとしない人。
それ以外は全員、並の人です。
本気の志
人類が誕生して以来、
一つのことに本気で取り組んでいる人の姿を見て、
心を動かさなかった人はいません。
ひとつのことに狂え
「私は絶対こうする」という思想を保てる精神状態は、
ある意味、狂気です。おかしいんです。
でもその狂気を持っている人は、幸せだと思うんです。
信じて疑わない
私は
人を疑い続けて、うまくやるよりも、
人を信じ続けて、馬鹿を見る男になりたい。
本の持つ力
どんな本でもいいのです。
本を開いてみれば、その瞬間、人生が変わるかもしれません。
本にはそんな可能性を持った言葉が無数に転がっています。
でも読む人はあまりいません。
読んだとしても、ほとんどの人は
本に書かれている教えを真似しようとしません。
一度、真似してみればいいのにと切実に思います。
ひとつでもいいんです。
実際、真似してみたら驚くことだらけです。
そうしたらこんなこともできるんじゃないかと、
他にも試してみたいことがあふれてきて、
そのうち、
「これは一生かかってもやり切れないな」
と気づくことになります。もっと早くやれば良かったと。
ああ、
とにかく、真似してみれば間違いないんです。
これは、
わざわざ言うことではないかもしれませんが、
言わずにはいられないのです。



