1型糖尿病を発症したことがきっかけで、ハンドドリップを始めた粕谷哲氏。コーヒーの世界へどっぷりとはまり、2016年のワールドブリュワーズカップではアジア人初の優勝を果たしました。
『図解 コーヒー一年生』を通して、コーヒーの価値や認知度を高め、たくさんの人に楽しんで欲しいと語る粕谷哲氏は、どのような経緯で世界一のバリスタになったのか。経歴や現在の活動について、お話しを伺いしました。
この記事は書籍『 図解 コーヒー一年生 』の関連コラムです。
粕谷さんの経歴。子どもの頃は努力が嫌いだった
粕谷さんは現在、コーヒーというひとつのジャンルに深くのめり込んでおられます。
このように探究心を持って深くのめり込むのは、子どもの頃からの性格でしょうか?
そうですね…。何かに集中するのは好きで、自分の世界を持っている人間だったと思います。一人でよく遊んでいて、知恵の輪が好きでした。
でも、あまり努力をするタイプではなかったかなと思います。笑
そうなんですね!コーヒーに関して、すごく努力を惜しまずに研究を続けているイメージでした。
実は中学受験に失敗して、そこから努力することがカッコ悪いと思うようになったんですよね。そのため、中学時代はあまり頑張ることはしませんでした。
そこから大学受験でまた頑張るようになって。
大学ではアルペンスキーという、ひたすら自分の速さだけを極めるスポーツをやっていました。
自分の記録を伸ばしたり、トライ&エラーをするのは大学時代の影響が強いんですね。
そうですね。どちらかというと、人とよりも自分と向き合うのが好きです。
大人になって、集中したり探求したりできるコーヒーに出会えてよかったと思っていますね。
入院時の「まずいコーヒー」がハマるきっかけ
厳密には小学生の頃なのですが、中学高校時代はほとんど飲んでいなくて、大学生のときもずっとお酒ばかり飲んでいました。笑
本格的にコーヒーを飲むようになったのは、社会人になってからですね。会社にマシンがあったので、ただただカフェインをとってました。
大学卒業後は、IT関連のコンサル会社に入られたんですよね?きっかけなどあるんですか?
僕はずっとイメージで生きてて、青学、大学院、コンサル……。なんとなく響きがカッコいいじゃないですか。勉強は好きなほうで、自分の中で知識が増えたり、成績が上がったりするのが楽しくて。
大学院では、トレーダーになるためにファイナンスの勉強をしてました。研究は楽しかったのですが、仕事として一生数字と向き合うのは嫌だなと思って、響きがカッコいいコンサル会社へ入社しました。
楽しかったですよ。メガベンチャーの会社で、難易度の高い仕事でしたね。入社してすぐの研修では勉強量がすごくて、3割くらいの新人が辞めていったんですけどね。僕は4年ほど勤めましたね。
そうですね。1型糖尿病を宣告されてしまって、急遽入院することになりました。
糖尿病はコーヒーだったら飲める病気だったので、入院中に自分で淹れてみたのですが、あまりにもまずくて。
はじめは、「なんでだろう?」という小さな芽だったのですが、淹れ方を変えたら味も変わるのが面白くて、入院中は毎日何杯も淹れていました。小さな成功体験を積み重ねることができて、楽しかったですね。
2週間くらいですね。検査入院だったので、暇で毎日コーヒーを淹れてました。
会社と並行してコーヒーにのめり込み、退職後はバリスタとして活動
そうですね。コーヒーの道具とか本を買って、退院後は趣味としてずっと淹れてました。
会社を辞めようと思ったきっかけは何だったんですか?
実は、バリスタになろうとして辞めたのではなく、イギリスに引越しをしようと思って退職したんですよ。
そうだったんですね。海外への引越しは何か理由があったんですか?
きっかけは東日本大震災です。僕は震災2か月後にボランティアに行ったのですが、そこで死生観が変わって。その翌年に体調を崩して、治らない病気に罹ったんですよ。
今回は1型糖尿病だったからよかったものの、いきなり死ぬ病気に罹る可能性もありますよね。
今の仕事のまま死ねるかと考えたとき、イギリスで暮らす夢を諦めきれないと思い、退職を決意しました。
イギリスというのは、何か強い拘りや理由があったんですか?
ぼんやりとは生きてるんですが、そのぼんやりしたものに飛び込む勇気は持っている方だと思います。
子どもの頃から親の影響でビートルズを聞いてて、イギリスはカッコいいと思っていましたね。イギリスに引越さないと後悔すると思って、勢いで会社を辞めました。
相当無邪気ですよね。イギリス移住に向けて、なにか計画はあったんですか?
勢いで辞めてしまったので、とりあえずワーキングホリデーで行って、カフェでバイトでもしようと思ってました。
ただ辞めてから知ったのですが、イギリスのワーキングホリデーの抽選は年に1回なんですよね。抽選まで半年やることがなくて。
その時ちょうど近くでコーヒーファクトリーのバイトを募集していたので、日本で仕事を覚えてイギリスに行こうと思い、働き始めました。
なるほど。そこでバリスタとしての活動がスタートするんですね。
半年後のワーキングホリデーの抽選はどうだったんですか?
それが普通に外れるんですよ。そこでもう1年コーヒーファクトリーで働こうかと思っていたときに、コーヒー豆の生産地に行く機会があって。
そこで感銘を受けて、価値観が変わりました。
バリスタっていい仕事かもしれないと思って。生産者の工夫や努力を伝えられる人になりたくて、そこから色々な大会に出始めるようになりました。最初はボロ負けだったんですけどね。
経験を積み、世界大会の「ワールドブリュワーズカップ」で優勝
そこからは大会に向けて、トライ&エラーを繰り返していたのでしょうか?
はい。毎日コーヒーを淹れていましたね。お客さんがいないときは、ずっとコーヒー淹れる練習をしていました。コーヒーに関するメモもたくさんありますよ。
そして1年後のワーキングホリデーの抽選に当選して、やっとイギリスに行けると思ってたら、なんとその翌月のエアロプレスの大会で優勝したんですよ。
※エアロプレス:コーヒーを淹れる器具のこと。エアロプレスを使うことがルールである大会が存在する。
すごいタイミングですね!
エアロプレスの大会での優勝エピソードをぜひ教えてください。
エアロプレスの大会で優勝できたのは、本当に奇跡という感じでした。
大会前日、コーヒーファクトリーのマスターに淹れるコーヒーを間違えて粗く挽いてしまったのですが、それが美味しくて。その挽き目で挑戦したら、優勝しました。笑
すごい奇跡だ…。笑
しかもエアロプレス大会で優勝した1年後には、世界大会である「ワールドブリュワーズカップ」でも優勝されてますよね。
そうですね。ワーホリへ行くつもりだったので、最後の記念受験としてワールドブリュワーズカップへ出場したら、まさかの優勝という結果でした。
ワールドブリュワーズカップは、自信がありましたか?
もちろん自分が優勝するつもりでやってましたけど、さすがに奇跡だと思いましたよ。笑
ワールドブリュワーズカップで優勝した瞬間はどんな気持ちでしたか?
苦しかったなという思いが一気にやってきましたね。このコーヒーは本当に世界一美味しいのか?とすっと自分に問いかけていました。自分で確信を持ってこのコーヒーが世界一美味しいと言えないとダメなので、ストレスや負担はすごかったですね。
けど決勝の日は楽しめたし、最後の発表で二人並んでいたときは、「優勝する気がする」と天井を仰いでいました。
日々実験を繰り返して、理論を作り上げてきた結果だと思います。
大会に出始めたきっかけは、生産地の魅力をもっとたくさんの人に広めたいと思ったからです。
でもここまで打ち込めたのは、要素を変えるとコーヒーの味が変わるのが楽しかったからですね。コーヒーは挽き目を変えたら味が変わるし、すべてがちゃんと繋がっているのが、自分の中で好きなポイントです。
現在の粕谷哲を支える3つの柱
僕がオーナーを務めるコーヒーショップのPHILOCOFFEA(フィロコフィア)、カフェコンサルティング、バリスタへのコーチングですね。
コンサルティングやコーチングはどんなことをされているのですか?
コンサルティングは、バリスタの技術向上、レシピやメニューの構築、開業支援などをしています。コーチングは、大会に出場したいバリスタへの個別指導ですね。
コーチングを通して、日本のトレンドを知ったり、自分のトレンドを作ったりもできるので、コンサルティングへ活かすことができています。
PHILOCOFFEAはいつ頃立ち上げられたのですか?
2017年11月に立ち上げました。立ち上げたときは僕が海外出張ばかりで、お店のことを見れていなかたので、3年くらい赤字が続いたんですよ。
今は、オペレーションや粕谷イズムの継承、コーヒーに対する向き合い方を伝えられるようになって、どんどん黒字になっています。
コーヒーの価値や楽しさを世に広めたい
アメリカ市場を全制覇しようと思っています。もしかしたら来年シカゴに引越すかもしれないし、PHILOCOFFEAも大きくしていきたいし、やりたいことはたくさんありますね。
アメリカのオフィスコーヒーを僕が全部獲りたいと思ってます。
けど、本当にやりたいと思っていることはシンプルなんですよ。コーヒーの価値を高め、色々な人を救い、幸せで豊かにしていきたいというのがいつも中心にあります。僕自身が美味しいコーヒーを淹れれるようになっても、狭いなと思ってて。
今回出版した『図解 コーヒー1年生』で、コーヒーの価値や認知が上がって、楽しめる人が増えたら嬉しいですね。
この記事は書籍『 図解 コーヒー一年生 』の関連コラムです。