0円ストロング生活の始め方

死生観がストロング!

#連載エッセイ
#0円ストロング生活の始め方

生きる喜びを最大化するには

人生必ず死はやってくるわけだけど、それは映画のエンドロールの最後の最後。生きてる時間こそが映画本編である。ここが面白くなければ勿体無い。人間が作り出した社会ってものは複雑で悩み多きシステム。その中でも生きる喜びを最大化するにはどうしたらいいんだろう。

 

ゼロ円だからこそ

自然環境と人間社会の大きな違いは「経済」という概念だろう。人間という生き物は大人になると有無を言わさず、お金を稼ぐことを強いられる。食料や衣類を得るため、家族を養うため、住宅や車のローンを返済するため、納税するため… とにかく生きていくためにはお金が必要になる。お金というものは基本的に社会の中で働いたり、資産運用したりして得ることができるわけなんだけど、社会でお金を稼いだ経験がある人の大部分が痛感しているかと思うが、これがなかなかに簡単ではない。上司やお客に気を使い、疲れた体に鞭を打つこともしばしばだろう。ただ生きていくため(食う・寝る・出すをするため)に、実に多くのプレッシャーを背負っている。
しかし、そんな人間社会とは真逆の性質を持つ自然環境。そこにいる生き物たちはお金というものを使わず、実にシンプルに食う・寝る・出すやってのけている。森でクマとウサギがヤマブドウとクリの実を取引するような物々交換もない。ダイレクトに自然の恵みを利用して、地球の循環の流れの中で排泄物を無意識的に他の生命に渡しているだけだ。その営み全てに金銭が存在しないわけだから当然ゼロ円である。
僕ら人間も、今でこそ森に背を向けてアスファルトやコンクリート、LEDライトの世界で生きる時間が増えたけど、100年前はほとんどの人が土や草の上を歩いて、田畑や海、山へ出かけ、木で作った家で火を焚いて暮らしていた。地域の人たち同士で協力して土木建築をしたり、物々交換をしたり、一応お金というものは存在していたけど、それに頼りすぎることなく、ほどほどに稼いでいた。その暮らしは完全にゼロ円とまではいかずとも、ゼロ円でも人々が動く価値観や風習だったり、お金を支払わずとも共有できる自然の恵みにあやかっていた。現代ほど文明が進んでいなかったぶん、人に、文化に、自然に寄り添って生きていたわけだ。

 

そもそも生きることがラクなわけがない

現代文明は日進月歩。大人百人分の仕事を重機が一瞬でこなし、数多くある家電製品はご家庭の奥様が寝転んでテレビを見ていられるほどあらゆる家事を自動化した。こんなに色々便利なものがあれば「人間が生活していくのなんて楽勝じゃん!」って感じるんだけど、案外現実はそうはなっていないように思う。
交通手段の発達は移動スピードが大幅に上がって時間の節約になるはずなんだけど、かえって暮らしのスピードも早まって忙しくなってしまったような…
あらゆる職業が分業化されて効率的になったかと思えば、生活の様々なものが専門的に分断されてむしろ面倒を増やしてしまっているような…
そこには常にお金がつきまとうから悩みも尽きないような…
目先のラクチンを手に入れるためにお金稼ぎで苦労するみたいな…
誰かの(何かの)ラクチンは、別の誰か(何か)の負荷になっているような…
一方、一昔前の暮らしは今のようにスピーディーでもプロフェッショナルでもなかったわけで、そうそう時間に追われたり、お金に縛られたりすることは少なかっただろう。そのかわり、自然現象の影響をモロに受けてヒーヒー言ったり、問題解決のために周囲にある素材を使って生身で立ち向かったりしたわけだ。
あえて究極の2択を設けるとするなら、
①お金を得るために間接的な労働をするか
②物体や現象そのものと直接的に格闘するか
である。
ちなみにわが家の暮らしの大部分は後者です。
そもそも人生にラクな道なんて無い。…と僕は思っている。
そんなことを言いつつも、もちろん世の中には(程度は様々だけど)お金持ちだってたくさんいる。しかし、通帳残高については安心かもしれないけど、おそらくそれを維持するための不安やプレッシャーも計り知れない。ただ寝てるだけでも収入がある人だって、最初の頃はウハウハだろうけど、そのうちに虚しさを感じてしまうかもしれない。(←ヒガミじゃないよ)
なんやかんやで、労働でも生活でも遊びでも、シンプルに身の丈に合った気持ちの良い汗をかくってことは結構幸せなこと。観察してみるに自然界の生き物って、寝るとき以外は常に何かをしていて、風呂もトイレも無い暮らしなのになんだかとても美しく、それでいて自由で楽しそうだなぁと感じる。勝手な解釈だけど、うちの庭を優雅に闊歩するニワトリや、花から花へヒラヒラ飛んでいく蝶を見ているとそう思う。
話は逸れるけど、以前僕はとある世界遺産の森に入って野生のクマを偶然目撃したんだけど、その勇壮さと美しさにものすごく感動した(同時にめっちゃ怖かったけど)。でも、その直後に別の場所の檻で飼育されていたクマを見たらそのギャップに驚愕。檻の中のクマはダラリと寝そべって何か与えられた飼料を食べていて、毛並みは森のクマとは比較にならないほどケバケバだった。汗をかく(ラクをしない)こと、そして自由であることって大事だなと痛感した。

 

死ぬことの安らぎ

人生、必ず幕を閉じるときはやってくる。いわゆる「死」ってやつだけど、僕はちっともそこにネガティブなイメージがない。若いときはこの社会に絶望し、富士山に登って自死してやろうと思っていた時期もあったけど(詳しくは拙著をご参照のこと)、この暮らしをするようになってからというもの、死というものは怖いどころか、ごくごくありふれた現象という印象だ。青々とした草を刈ったり、パチンと腕に止まったアブを叩いたり、ピヨピヨとヒヨコが軒下から現れたり、そのニワトリが成長して産んだ卵を食べたり… 暮らしの中にたくさんの生き死にがある。それが日常の至るところにあって、自分も例外なくその世界の一部だという認識がある。
「まだまだ生きていたい」「わが子の成長を見たい」という未練っぽい希望もあるけど、「もういいかな、結構がんばったし」「死んだらもう薪割りしなくていいなぁ」みたいなヤリキッタ感も同じくらいある。わざわざ面倒なことをしている暮らしなだけに、やっとこの生活から解放されるぜっていう、安らぎにも近い感覚が死に対してある。
汗をかき続ける幸せももちろんあるけど、それをやめるっていう幸せもやはりある。
ただ、たまに泊まりがけで遊びに出かけたりなんかしちゃうと、ソワソワと家のことが気になったり、「この時間で何か作業できちゃうじゃん」っていうふうに、バカンス気分どころか逆にストレスを感じることはしばしば(笑)。。
うん、生きている限り、僕はきっと汗をかき続けるんだろう。そしていつか、もう汗をかけなくなった僕の肉体はひとつの大きな排泄物となって地球の循環の輪に還っていくんだろう。次世代に後始末をさせてしまうようなものを残さず、後腐れなく、すんなり消えていければ嬉しい。これまでありがとう。あとはよろしく。あとのことは知らないよ。

 

まとめ

とまぁ、死生観というにはあまりに理科チックで幼稚な持論を展開してしまいました。人間という生き物は脳が肥大化してしまったがゆえに、答えが無いようなものにも、ああでもないこうでもないと考え、悩んで、それでいて軽はずみに行動してしまうもの。昨今の社会というのはまさにその産物とも言えるほど複雑だけど、そのハイスペックな脳を使って、複雑にこんがらかったものを丁寧にほどいていって単純化させてしまうこともできるはず☆
最終回のくせに気の利いたことはほとんど書けておりませんが、これが僕の本音でしてこんなことを生きているうちに書けたことを嬉しく思います。書籍の出版だけでなく、こういったWEBエッセイの機会をくださったサンクチュアリ出版さん、ありがとうございました。おかげで良い汗がかけました。これまでお読みいただきありがとうございました。読者の皆さんもどうか今日も良い汗をおかきくださいませ。(←こんな挨拶ってあり?笑)
それではごきげんよう! ストローング!


田村余一(Tamura Yoichi)
1977年、青森県南部町生まれ。大学卒業後まともに就職することもなく、フリーターをしながら現代社会への不安と失望を加速させる。20代半ば、富士山で冒険死を試みるも見事に失敗し、おどるような人生を選択。以来ちょっとオカしいくらいのポジティブ思考で独自の人生をクリエイトし始める。伴侶の田村ゆにと電気・ガス・水道を契約しない生活を構築し、持続的DIY農生活を実践しながら、これまでの人生経験の集大成とも言える、地域の「御用聞屋」を開業。デジタルとアナログを混ぜ合わせつつ、一人で百の仕事をこなす現代版「百姓」を目指す。廃材建築家、イベント企画/演出、映像作家、デザイナー、イラストレーター、ナレーター、舞踏家などなど……スキルはムダなくらい多岐にわたる。最近は秘密裏にムラづくりを画策中。

田村余一(Instagram=うちみる旦那)
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うちみる(自給自足な暮らしづくり:WEBサイト)
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この記事は書籍『 都会を出て田舎で0円生活はじめました 』の関連コラムです。