夜をめくる

vol.2 混ざり合えていたなら

#連載エッセイ
#夜をめくる

体温よりも高い気温が続くなら、人肌恋しいなんて感情はなくなるかも。どこかの街で9月の歴代最高気温を観測したというニュースを眺めながら考えていると、画面は8時前の占いに切り替わっていた。最下位に向けられる勝手なごめんなさいが苦手で、いつも途中でテレビを消してしまう。

 

「そろそろ行くけど」
声をかけてもベッドの中にいるアイツからは「うー」か「あー」しか返ってこない。
「バスタオル濡れたまま洗濯機に入れないでって前も言ったじゃん」
「あー、どうせ洗うんだからいいっしょ」
洗うのは私だと言いかけて、ぬるくなった麦茶で文句を流し込んだ。自分の家なのに、なんで朝から嫌な気分にならないといけないんだろう。

 

「行ってきます」
アイツは起き上がることすらしないで申し訳ない程度にベッドから手を振っている。玄関まで見送りに来てくれなくなったのはいつからか、もう覚えてもない。

 

 

今日はよくない日になりそう、占いは信じないのに嫌な予感はよく当たる。お金をトレーに投げ捨てる、さんざん試着したのに一着も買わない、声が小さくて領収書の宛名が聞き取れない、そんなお客さんばかりが続いた。

 

仕事がおもしろくないわけじゃない。プレゼント選びの手伝いは自分も嬉しい気持ちになるし、売上目標を達成すると満足感もある。シフトを組んだ後にアルバイトの子から文句を言われるのと店のSNS更新が面倒なこと以外は、辞めたくなるほどの不満もない。でも月に一回か二回くらい、よくない日がある。天気予報みたいに毎朝おしえてくれたらいいのに。

 

なるべく他のスタッフを褒める内容を書いた日報を送信して、よくない日の仕事がやっと終わってくれた。すぐに帰って一秒でも早くヒールを脱ぎたいけど、このまま帰ったらアイツに八つ当たりをしてしまいそうで、寄り道をしてから帰ることにした。

 

 

閉店間際のデパ地下が好き。お昼や夕方に行くとどれもこれも美味しそうに見えて迷ってしまけど、閉店間際はショーケースに余白があるから。選択肢が減ると安心するのは子どもの頃から変わらない。秋野菜のサラダとおかずを二種類買って、甘いものはどうしようか考えているとワインショップの店員さんに話しかけられた。

 

「おつとめ品でチーズの盛り合わせがお得ですよ、いかがですか」
「ワインはたまに飲むけど、チーズはふだん食べなくて」
「きちんと組み合わせると別次元の美味しさになりますよ」
「別次元?そんなに?」
「クセのある味同士が完全に混ざり合うと、区別がつかなくなって、まったく新しい味になるんです」
「なんだか素敵ですね、相性って」
「おもしろいですよね。このミモレットチーズには軽めの赤ワインがよく合います」

 

 

両手の荷物は重かったけど、帰り道の足取りは軽かった。寄り道をして正解だ。今日はアイツにもちゃんと優しくできそう。

 

「ただいまーごはん食べたー?」
不自然じゃないように、できるだけ明るい声で、ドアを開けた。でも、部屋に入ってすぐに違和感に気づいた。靴が脱ぎ捨てられてない。食器も洗ってあるし、テーブルの上に充電器もマンガも転がってない。片付きすぎてる。

 

「おかえり、俺さ、出ていくことにした」
荷物くらい置かせてよ着替えくらいさせてよ手くらい洗わせてよ、なんでいきなり言うかな、頭に浮かんだ文句はどれも声にならなかった。

 

「そっか、向こうの家?」
「……うん」

 

 

一年前の夏、二回目の告白を断った。
結婚する気がない人とは付き合えないと答えたのは私なのに、結局は離れられずにいた。自分がどうしたいのかも、どうしたらいいのかも、自分に向けられる好意を手放したくないだけなのかも、ひとりが怖いのかも、わからないまま。ふたりで夏祭りに行って、秋に家に転がり込んできて、冬には二泊三日で生まれた街を案内してくれたのに、私たちはずっと他人同士だった。

 

恋人と呼ぶほど誠実じゃない。だけど友だちではいれないほどの体温と、セフレと割り切れないほどの時間を、私たちは積み重ねすぎた。ひとりで眠る夜が増えた春、きちんと向き合えばよかったのかな。

 

 

自分のサラダを食べる音が聞こえて驚いた。やたらと大きな音量でテレビを見る人がいないと部屋はこんなに静かなのか。コップをテーブルの端ぎりぎりに置かれてハラハラすることもない。マヨネーズをかけていいか聞かれることもない。誰にも話せないお客さんや会社への不満を聞いてもらうこともできない。

 

ひとりだと飲みきれないだろうなと思いながら、ワインの栓を抜いた。店員さんの言った通り、熟成期間がまだ短いミモレットチーズは酸味があって渋みの少ない赤ワインとよく合った。本当に美味しさが別次元になるくらいに。

 

あのままアイツと一緒にいても、熟成じゃなく腐っていくだけ。これ以上時間を無駄にしなくてよかった。完全に混ざり合えなかったふたりは相性が悪かったんだ。観たい映画も遊びに行きたい場所も違ってばかり。未練がましく引き止めたり泣いてしまう自分にはなりたくないから、あっさり出ていってくれて助かった。なんで終わらせ方の好みだけ合っちゃうかな。

 

牛乳パックはきちんと閉じろ、いつも運転ありがとう、靴下をイスに放置するな、髪を乾かしてくれて嬉しかった、酔った勢いで触ってくるな、笑った時の眉毛の形が好きだったよ。話を最後まで聞いてくれるところも、なんだかんだで優しいところも。

たくさんの気持ちと思い出を混ぜ合わせて、夏の終わりを飲み込んだ。

 

 

 

 

執筆:げんちゃん
モデル:原口玲花
撮影:Koshiro Kido

 

こちらのストーリーは、”図解 ワイン一年生 2時間目 チーズの授業 小久保尊(著)を題材にしました。


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