「自分にしかできない役割」を持っている人は、世界中で何人いるのだろう。東京ドームを満員にするアイドル、オリンピックで金メダルを獲るアスリート、ノーベル賞を受賞する学者、アメリカの大統領。
何人いるのかはわからないけど、間違いなく僕は持っていない人。卑屈でも落ち込むでもなく、事実としてとっくの昔に受け入れている。
だけど、妻は持っている人だ。
僕たちふたりの子どもに、お腹のなかにいる息子に、栄養を届けられるのは彼女だけ。世界中の誰にもできない、彼女だけにしかできない役割を持った、特別でワンダフルな存在。
だから、どちらかができる家事は全部、僕がやると決めていた。
悲しかった季節はもう終わったんだと歌うようなイルミネーションで、駅前はキラキラと浮かれている。
仕事で疲れているんだから静かにしてくれよ、口に出さないようにつぶやいて、帰宅ラッシュのバスに乗り込んだ。全員がマスクをしていてアルコール消毒のにおいがする車内の空気は重く、病院の待合室にいる気分になる。
文句とつり革を握りしめて走っていると、重たい空気を切り裂くような音量で赤ちゃんの泣く声が車内に響いた。一番うしろの席で、母親らしい人が周囲に繰り返し頭を下げている。
「すみません、すみません、静かにさせます」
誰もなにも悪いことをしていないのに。謝る必要なんてないのに。
「赤ちゃんは泣くことで会話しているんですよ」なんて気の利いたことを言う勇気はなくて、ただ、バスの信号で止まる回数が減るように祈ることしかできなかった。
半年後、妻も僕の知らないところで、誰かに頭を下げるんだろうか。
バスを降りて、逃げるようにコンビニに入る。
食パンと牛乳と、ポテトサラダも買おう。ああそうだ、検診用の現金も下ろさないといけない。
「テレレレッテッテッレー」
ATMでの手続きが終わると、RPGゲームのレベルアップ音がまぬけに流れた。むしろ残高が減ってレベルダウンだし、なにも成長できていない自分への皮肉に聞こえてしまう。
買い物をして、夕食の準備をして、洗濯と掃除をしても。飲みに行くのもタバコを吸うのも止めても。それでも、そんなことくらいじゃ、ちっとも足りない。
薬指に増えた3グラムと、身体の真ん中で育つ3,000グラム。不安も責任も重さが同じはずがないんだから。もっとしっかりやらないと。いい夫にならないといけない。いい父親にだってなりたいんだ。
家に帰ると、彼女は眠っていた。
規則正しい寝息に安心する。5ヶ月目で急に大きくなった彼女のお腹に手を当てていると、頑張れる気がした。
起こさないように、できるだけ静かに、夕食の準備をする。味噌汁を作って豚肉を焼いて。ごはんをよそったら彼女を起こそう。やっとこさ炊飯器を開けると、水に浸かったままの米と目が合った。
「あー、マジか」
自分で思っていたよりも大きな声が出ていたらしく、彼女が起きてきた。
「おかえり。なんかあった?」
「ただいま。ごはん炊けてなかった」
「ごめんね、私がボタン押し忘れた」
「大丈夫よ、チンするごはん買ってくる」
「怒ってる?」
「怒ってないよ」
「本当に?」
「ほんとほんと、安心してくれ」
「なにもできない娘だけど、よろしくお願いね」
2回目のコンビニに向かいながら、結婚のあいさつの日に義母から言われた言葉を思い出した。悪気がないのも謙遜なのもわかっている。ただ、これが「自分にはできることが少ない」と彼女がこぼす理由だとわかった。
「彼女はなにもできなくないです。たくさんできます。彼女が苦手なことは僕がやるので大丈夫です、夫婦なので」
これから家族になる人に反論したことに、僕は誇らしい気分になっていた。彼女を縛るものから守るのだと。男らしさ、女らしさ、地方の小さな島の見えないルールをもう気にしなくていいと伝えたくて。
チンするごはんを買って帰ると、彼女は泣いていた。
「ごめんね、機嫌が悪いと私のせいなんだと思っちゃうの。あなたも、職場の人も。迷惑をかけてるんだろうなって。私のできることが、ひとつずつ減っているから。そんなことないって言われても、そうなんだろうけど、思っちゃうの」
彼女が声を上げて泣くのを、初めて見た。増える役割に追われているのを言い訳に、ふたりで向き合って話す時間が足りなくなっていた。
なにが心配で、なにが不安なのか、もっと聞かなきゃいけなかったのに。笑った顔が好きだと言うたびに彼女が弱音を吐けなくなっていることに気づきもしないで。
「できない」よりも「できなくなる」のほうがしんどい。情けない想像力しかない僕は、彼女に教わるまで考えもしなかった。
彼女が声を上げて泣いた夜から、ふたりで向き合うための習慣を増やした。
お風呂に入ったあとはスマホもテレビも見ないで、眠りにつくまでゆっくり話をする。たくさんハグをする。早く起きられた朝は一緒に散歩をする。すると不思議なくらい、お互いのメンタルも体調も健康的になってきた。
夫婦として、親として、役割は増えていく。うまくできないこともたくさんある。それでも、気負いすぎないように。ふたりがどんな暮らしをしたいのか、どんな家族になりたいのかを大事にしていこう。
ふたりが気持ちよく暮らせていることが、きっと子どものためにもなるから。きっかけをくれた、あの日にコンビニのATMから流れたRPGゲームのレベルアップ音は、皮肉なんかじゃなかった。
執筆:げんちゃん
モデル:原口玲花
撮影:Koshiro Kido
こちらのストーリーは、”ブレイン メンタル 強化大全”を題材にしました。