都会を出て田舎で0円生活はじめました。青森の0円家族、田村家の自給自足な日常をお届けします。
ストローングッ! さぁいよいよ最終回。最後を飾るコラムのテーマは…「死生観」です。
この世に生まれた以上、避けては通れない「生と死」。フツーに暮らしているときは目を逸らしがちなこの観念にフォーカスしてみようと思います。お読みいただいたあとは是非おまけ動画もご覧ください。わが家のありのままの暮らし、梅雨入りした7月のある日。朝から晩までを短くまとめた動画になります。それではまいります、ストローングッ!
目次
そもそも生きるって、死ぬってどういうこと?
「死生観」なんて立派な言葉を使っちゃうと、宗教的な概念やスピリチュアル思想に関連づけてしまいがちだけど、僕の場合はいたってフラットに科学というか、さらにもっと子供っぽく理科チックに捉えている。
僕が考える「生きる」ということ
まぁ、人間というのはヘンに脳が肥大化した突然変異みたいな生き物。そんなヤツらが作り出した社会構造はなかなかに複雑だ。乗り物に乗って移動したり、生活に必要な物をお金と交換したり、学校や病院に通ったり、保険に加入したり…。自然界、ほかの動植物をどんなに見回してもそんな生き物は皆無。生き物によっては巣(家)を作るものもいれば、子育てを丁寧にするものもいるけど、この地球の生きとし生けるものに例外なく共通しているのは、エネルギーを得るために何かを食べて、眠って、排泄するってこと。
前回のコラムでご紹介したニワトリなんて、一日中あっちこっち動き回って、幾度となくパクパクしてはプリッとして、夜になれば小屋に戻ってスヤスヤ眠る。いつかやってくる死というものがやって来るまで、それを延々と繰り返すわけだ。
この地球の生き物の生命活動をめっちゃ単純に定義してしまうと、それは…
①「食う」
②「寝る」
③「出す(排泄する)」
これだけってことになる。なんてシンプル!(他にも次世代を作り出す生殖行動もあるけど今回は割愛)
人間はこのたった3つの要素を、安定的に、効率的に、より安全に、より快適におこなうために社会というものを構築したと言っても過言じゃない。
食う=食糧の生産(農水産業、加工業、飲食業など)
寝る=住居の確保(土木建築業、電気・ガス・水道などのインフラ)
出す=生活残渣の処理(下水道整備、ゴミの処理)
僕にとって生きるってことは、何も複雑なことじゃなく、この「食う、寝る、出す」ってこと。そこに大義名分なんてものもなく、生き物っていうのは兎にも角にもそんなもんなんだ。
僕が考える「死ぬ」ということ
さて、今度は死について。これも精神論抜きでめっちゃ理科チックに言わせていただくと、地球上の生き物の身体というのは全て有機物(一部例外もあるけど炭素を含む化合物/生命が作り出すものって大体定義できる)で構成されている。簡単に言ってしまうとそれは「いつか腐って分解するもの」。
草や木、虫や動物、もちろん僕らの身体も生命活動が終わると徐々に腐っていって、無機物(一部例外もあるけど炭素を含まない物質/金属系の物質や水など)に変わり、土や水に浸透したり、空気中に拡散したりして、元の姿が跡形なく消えていく。
田舎で自然環境と戯れながら暮らしていると、そういった現象に触れることは日常茶飯事。青々した草を鎌で刈ったら、その3日後には茶色く干からびて、さらに1ヶ月もすればほぼ土と同化している。ニワトリが捕まえてきたネズミだって、虫に食べられながら分解が進んで1週間後には骨だけに。その骨でさえ風雨にさらされながらいつの間にか消えている。
僕にとって「死ぬ」ってことは、生きることと同様にして何も複雑なことじゃないし、大義名分なんてものもなく、この自然の摂理に従ってただ消えていくこと。どんな生き物だってそうだし、それが当たり前のことだから死、それ自体への嫌悪感も恐怖心もない。もちろん、めっちゃ痛い思いをして死ぬのは辛いだろうけど、死に方を選べるわけじゃ無いからそんなことを考えて心配するのは杞憂というもの。せいぜいその都度、良い生き方を選びながら暮らしていく他ないと思う。
地球ってよくできている
そんなふうに生死をわりとドライにシンプルに捉えることができるのも、自然の中で自給自足的に暮らしているからだと思う。天候をはじめ、菌類や虫、動植物、人間が作り出せない自然現象に、ときには恩恵を受け、ときには翻弄されながらも、それを受け入れて寄り添って生きる。
僕らが重力でへばりついているこの地球ってスゴいシステムを持っていて、これまた理科チックに言わせてもらうと、それは「循環」。地球のあらゆるもの(有機物も無機物も)がそれぞれ相互に影響し合いながら姿を変え、グルグルとサイクルしている。
少し例を挙げると、僕という生き物がパクパクと野菜やお肉を食べると翌日にはウンウン(排泄物を可愛く表現)が出る。そのウンウンはわが家のコンポストトイレ(知らない人はうちの拙著をご参照のこと)の中で虫や菌類がパクパク食べる。虫や菌類もその後は当然ウンウンを出すわけなんだけど、そのウンウンはどんどん小さな生物によって分解されていって、気付けばあのウンウンの姿カタチはもちろん匂いも無くなる。それを堆肥として畑の土に混ぜ込むと、野菜たち(わが家では雑草も多いけど)が根っこから堆肥ミネラルをパクパク食べながら光合成をする。植物にとってのウンウンはこの光合成による酸素。おかげで僕やニワトリたちは毎日気持ちよく呼吸をしながら、その野菜なり草をパクパク食べることができるわけだ。差し詰め、植物はこの地球上で酸素を作り出すことができる唯一の存在。植物、森林、大事です。
このめくるめくパクパクとウンウンの循環。つまり地球はこの生命の排泄循環によって、この青く美しい状態を保っていると言える。これってスゴいシステムじゃない?
こうした地球の壮大な循環の輪に心身を置いて暮らしていると、生(せい)であろうが死であろうが、特別視する必要がなくなっちゃった。
命に大小もなく、ただこの地球にポツンと生まれ、何かに寄り添って生きている。そしてどんなに抗おうが、地球生まれ、地球育ちの生き物はもれなくこの循環の輪の一員となる。みんな一緒。だから安心して生きて、その先で堂々と死のう。