「自分」を生きたい人に片づけをすすめる理由

モヤモヤやイライラを「整える」選択

#連載エッセイ
#「自分」を生きたい人に片づけをすすめる理由

楽しいけど、なんとなく心の片隅にほんの少しどんより感がある。
幸せだけど、なんとなく憂鬱や不安が居座っている。

そんなことってありませんか?

大ゴトではないんだけど、心の中に何かが引っかかってるような、何かがちょっとだけ影を落とすような。

こんにちは、整理収納アドバイザー・モチベーターのかとうです。

今回はそういう感覚について話そうと思っています。「モヤモヤ感情の片づけ」とでも言いましょうかね。

私は子どもの頃からこの「なんとなくな憂鬱」は大なり小なり時々あって、それが普通なんだろうと思ってきました。振り返ると、何に対して…?ともう思い出せないんだけど、たまにある人間関係のいざこざとか、不明瞭な将来に対する不安とか、評価に対する恐れとかだったんだろうと思います。

このうっすらと居座り続けて対処もされない「苦」こそが、実は一番の曲者だと私は感じています。

ここでは「なんとな苦」とでも呼びましょうか。


実はこの「なんとな苦」が「普通にある」と思いこんでいた私はもういません。手放した日のことをよく覚えています。

それは20代のある日のこと。

1人暮らしの部屋に帰ってきて、リラックスできているはずなのにどんより感を抱えている自分に気づきます。そして「あ、今日はこの根っこを突き止めてから寝よう」と思いつきます。

その時突き止めたのは「仕事でよくわからないまま帰ってきてしまった。あれはあとから問題にならないだろうか?」みたいな不安感でした。

ほんとに些細なことだったけれど「ああ、これが心配だったんだ!」と思った。「怖かったんだな」とも。それと同時に「これは今、家で悩んでいても仕方のないことだな。明日聞きに行くしか出来ることはないな」と区別をつけられた。そして、抱えたどんよりを手放して眠れたのでした。

きちんと「苦」を見て、自分の思いが理解できて、事実と感情と未来に線が引けた。大げさに聞こえるかもしれませんが、この安心感と爽快感といったらありませんでした。

それからです。モヤモヤをそのままにして寝ることがなくなって、人生の快適さ・ご機嫌さが格段にアップしたのは。

これまで連載してきた片づけの理論の中で、片づけ対象のモノを4領域に分ける方法をご紹介したのですが、その領域のひとつに「ただある」という分類があったのを覚えていますか?


使ってるわけでもなく、好きなわけでもなく、明らかに捨てるべきゴミというわけでもない。「ただある」モノたち。「なんとな苦」もそれのようだと私は感じます。

大至急対応しないといけないわけではないけれど、その領域が増えれば増えるほど、空気がよどんでじわじわと自分の中に毒をまわしてくる感じ。真綿で首をしめるように。

片づけでメスを入れるべき本丸が「ただある」領域であるように、スッキリ爽快によどみなく過ごすために向き合うべきは「なんとな苦」なんじゃないかと思ってるんですよね。

─体のある部位になんとなく違和感が出て、もう数か月経つけど、怖くて病院に行けない。

─夫の家での態度になんとなくイヤな気分になるけれど、なぜかはよくわからないし追及するのも気が引ける。

─教育費や将来のことで家計がなんとなく不安だけど、収支を直視するのが怖くて放置している。

─SNSで輝いてる人を見るとなんとなく胸がザワつくけれど、なかったことにしている。

そういうのってない?そういうやつと向き合うってこと。

至急どうこうなる問題ではないけど、確実にある。でも整理されていない感情たち。まさに片づけ待ちの状態なんじゃないかな。