ライフスタイル

迷ってばかりの私に「自分の生き方」を教えてくれた6つの出会い/新田真由子

#ライフスタイル

①カンボジアの子どもたちとの出会い

2004年、26歳のときに買ったばかりの一眼レフカメラを持ってひとりでカンボジアに1か月間行きました。カンボジアを選んだのは、行った人がみんな「よかった」と言っていたから……という単純な理由です。

タイから陸路で国境を越えるとき、物乞いの子どもや大人たちがたくさん群がってきました。戸惑った私は、その子たちが目に入っていないかのように、まっすぐ前だけを向いて歩いたのですが、そのことがずっと自分のなかで引っかかっていました。

帰国後1ヶ月ほどして、私は再びカンボジアへ。一度目に行った際に、タイで学校をつくっているという人に出会い、その人がカンボジアで開催するワークキャンプに参加するための旅でした。タイから同じルートで国境を越えるとき、相変わらずそこには物乞いの人たちがあふれていました。でも、今度は物乞いの子どもたちと手を繋いで渡っている私がいました。「1ドルちょうだい」と手を出されたらチョキを出してジャンケンにしたり、「1ドルあげるから2ドルちょうだい」と冗談を言ったり、子どもたちの目を見てコミュニケーションをとると彼らも笑って応えてくれます。一度目のときの私が、その子たちを見ることができなかったのは、かわいそうだと決めつけていたから。でも、自分の見方次第で世界は変わる。二度目の国境越えは景色がまるで違いました。

カンボジアで出会ったひとたちの多くはイキイキとして目は輝いていました。物乞いの子も、ゴミの山に生きている子も、なにももっていないように見えて実はそうではない。今を生きている。本当の豊かさってなんだろう。
そのころ、カンボジアで出会った人が「自分に起きていることすべてに意味がある」ということを話してくれました。旅を続けるなかで、過去をふりかえりながらさまざまな気づきを得るなか、これまでどんな私だったとしても、いつも両親や友だちにゆるされ、そのなかで生かされてきたんだということへの感謝の気持ちが湧いてきました。そんなことを感じたのは初めて。まるで自分がもう一度生まれて、いまから新たに人生が始まる気さえしました。

カンボジアでは、いろんな人を撮影し、帰国後に写真を見せながらカンボジアでの気づきをいろいろな方へ話す機会がありました。自分の感動を誰かと共有する幸せ、話すことが苦手な自分でも、それはすらすら話せることに気づきました。そこで、「自分が好きだからやっていることや、やりたいからやっていることで誰かの役に立ちたい」と思ったときに、夢を抱いていた中学時代を思い出し、もう一度チャレンジしたいと考えるようになりました。
それから数年たって、「写真と文章を書いて伝える仕事=フォトジャーナリストになろう」と決め、フォトジャーナリストになるための勉強をし、退職後は社会課題に関する取材などにも取り組んでいました。

②ボランティアで訪れた石巻市での出会い

フォトジャーナリストを目指しているさなか、2011年に震災が起き、4月上旬にボランティアとして石巻市へ。住宅を1軒ずつ歩いてまわり、困っている人がいないか確認するのが私の役目でした。そこで出会ったのが、ご家族を津波で失ってしまったという女性。泥出しなどを担当しているボランティアメンバーにお願いし、依頼のあったアパート前の瓦礫をどけてさしあげるとほっとした表情をし、私が石巻を離れる際は笑顔で一緒に記念写真を撮りました。

後日その写真を送ると、お返事が届きました。そこに書かれていたのは「私はすべてを失い、アルバムも残っていないけど、新しいアルバムの1枚目がこの写真です」という言葉。それを読んで、自分のやりたいことがジャーナリストなのかふと疑問に思いました。ただ現実を伝えるだけでなく、誰かの笑顔に繋がる写真や言葉を届ける人になりたいのではないか。

そこで、今度は東京でWebデザインを学ぶことに。Web制作なら、今後増えてくるであろうホームページ制作や発信に写真を活かすことができ、復興の役にも立つのではないかという思いからでした。学んだ知識を活かし、東京のベンチャー企業に就職しました。

③南相馬市に住む90歳のご夫婦との出会い

東京のベンチャー企業で働いていたころ、あるフェスイベントで詩集が売られているのを見つけました。それは、原子力災害により避難を余儀なくされた地域の仮設住宅に住む自治会長が書いた詩。感銘を受けた私は、出版元に問い合わせ、その方を紹介していただきました。

当時、私が生まれ育った岐阜県の村で、高齢者の聞き書き(語り手の話をそのまま書きとめる手法)をして本にまとめてくれた人たちがいました。その地に生きてきた人の日常や生き様を「価値」として本に残すもので、それにより高齢の方が元気になる姿を見て、とても素敵だなと思っていました。そこで、語ることで元気になり、ふるさとを残すことにもつながるし、被災地に新しい街をつくるときも、地元の人たちが大切に受け継いできたものや想いを尊重しながら街づくりを考えることが重要だといつも感じていたので、私も被災地の方々の震災前の暮らしを聞いて書き残したいと思っていました。

自治会長にそう伝えたところ、紹介してくださったのが90歳のご夫婦。原子力災害による避難というつらいご経験をもちながらも、常に未来を見ている素敵なご夫婦でした。仮設住宅のそばに畑を借りてそこで収穫した野菜をご近所に配ったり、東京オリンピックを楽しみにしていたり。私は「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼んで慕わせていただきました。たまに通うだけではなく、二人のお話をしっかり聞きたい。私が福島に移住したのは、そんな想いからです。

よく「過去と他人は変えられない」と言いますが、私は「過去は変えられる」と思っています。正確には、起きたことをどう受け止め、いまをどう生きるかで、過去の認識や意味付けが変わる、ということです。私自身、過去にあった出来事の受け止め方が変わったことで、まるで過去が変わったかのように感じたこともあります。

震災での経験は、私の過去とは比較にならず、簡単に乗り越えられるものではないですが、決して消えることのない苦しみや悲しみを抱えながらも、いまの暮らしに感謝や喜びを見出して、「いま」を生きている。起きてしまったことは変わらないし、ないほうがよかったに違いないけれど、「あの出来事があったからあなたと出会えた」「当たり前のことのありがたさに気づけた」「なにもないからこそチャレンジできる」といった言葉を、たくさん耳にしました。また、残りの人生を通して誰かの役に立とう、自分たちの経験を教訓にしてほしい、そう言って行動されている方々もいます。

何がいい悪いという話ではありません。ただ、何か辛いことがあっても、それを理由にずっとそこに立ち止まって不幸のなかに生き続けるわけではなく、そこから人は学び、どんな状況でも感謝を受け取ることができる。私だったら、こんなに優しくなれるんだろうか。東北に来て私が感じたことは、人はなんて強くて美しいのだろう、ということです。
改めて、人の生き様やストーリーを伝えていきたいと思わせてくれた出会いでした。