裕福な家庭に生まれながらも、少年時代に両親を亡くし、寂しさから非行に走り、ギャングとつるんで拘置所入り。その後、心理学の本を読み漁り、日本初の「メンタリズムバー」を開店。異色のキャリアをほこるメンタリストのロミオさんが、壮絶な半生を告白。
目次
9歳のとき
僕は両親を失った
身長180センチ、体重98キロ。その恵まれた体格だけを見ると、ヘビー級のボクサーかと勘違いしてしまいそうだ。
私たちの持つ「メンタリスト」というイメージからはかけ離れ、まるでスポーツマンのような風貌のロミオさん。しかし、幼少時は、意外にも病弱だったという。
1972年、香港生まれ。よく聞かれるが、ロミオ・ロドリゲス・Jr.という名前は、ペンネームではなく、本名だ。
メキシコ人の父はミュージシャンとして生計を立て、中国人と日本人のハーフである母は貿易会社の社長秘書をしていた。
ロミオさんの生後1年は香港にいたが、一家は間もなくイギリスに移り、マンチェスターで暮らすことになる。
父親がミュージシャンとして成功していたため、家庭環境は裕福だった。
プール付きの豪邸に住み、小学校への通学は車での送り迎えがつく。
ホームパーティーもよく行ない、お金持ちの同級生たちが遊びに来た。一緒にするのは、もっぱら「テレビゲーム」。
ぜん息気味で、運動も禁じられていたロミオさんは、インベーダーゲームが大好きだった。今からは想像できない「ゲーマー」っぷりだ。
しかし、平穏な生活は急に終わりを告げる。きっかけは、母の死だ。
ロミオさんが9歳のとき、仕事先のアメリカで母が倒れた。脳腫瘍だった。
アメリカでの入院生活を終えてから、いったんイギリスに戻ったが、手術は日本の病院でしかできないと言われてしまう。
母方の伯母を頼って、神戸の病院に再入院。一度は退院したものの、容態が悪化して二度めの入院。闘病むなしく、付き添っていたロミオさんを残して亡くなった。
イギリスに戻ったロミオさんを、さらなる悲劇が襲った。
母の命日から1週間後。息子の前では気丈に振る舞っていた父だったが、彼女の思い出の残る家にいるのが辛かったのだろうか。「ちょっと、アイスクリームでも食べに行こうか」とドライブに誘ってきた。
出発して数分後。ウトウトしはじめた頃、耳に飛び込んできたのが、急ブレーキと大きな爆発の音。車が大型トラックと衝突したのだ。車体は吹っ飛び、フロントガラスが無残に潰れた車内。横には血まみれの父がいた。
その後、救出されて病院に運ばれたロミオさんに告げられたのは、父の死だった。
「でも……、僕は不思議と悲しくなかったんです。父の死を知らされたときも、葬儀のときも、僕はまったく泣きませんでした。もしかすると、母が亡くなったときに、感情を一時停止させてしまったのかもしれません」
そうして、心に壁を作ることで、なんとか身を守っていたのだろう。まさか、たった一週間で両親を一気に失うとは……。
ロミオさんは、母方の伯母を頼って、神戸へ向かうことになる。
どこにも居場所がない僕が
すがったマジック
神戸での生活は、大きな戸惑いから始まった。
伯父は料理人、伯母は専業主婦、そして4歳上の従姉がいる一家に居候。当然だが、家には運転手もメイドもいない。
「生活自体がガラリと変わりました」と困惑するのも無理もない。
伯父からはスポーツを勧められ、毎朝近所の諏訪山に登ってラジオ体操をしたり、中学進学後は野球部に入ったりもした。しかし、熱中するまでにはいたらなかった。
とはいえ、もともと勉強も得意ではない。そんなロミオさんが、この頃、一番ハマったのが、魔術や占い、そしてマジックだった。
「魔女養成講座」なる通信講座を受講したり、独学で勉強したタロット占いをクラスメートに試してみたり、簡単なマジックを披露したり。
いまの家には居場所がないと感じていたから、それを忘れさせてくれる神秘的な世界に心が躍った。
しかし、勉強もしないでオカルトめいたことに興じている生活態度を、伯父はたびたび叱責するようになる。
いま思えば、それは甥の将来を気遣ってのことかもしれない。だが、ただでさえ肩身の狭さを感じていた身には、それが堪えた。
保護者に認めてもらえない寂しさから、だんだんと非行に走っていく。ケンカ、万引き、学校や警察からの呼び出し……。ますます伯父との関係は悪くなり、ロミオさんはある決意をする。
中学卒業を機に、ロミオさんは三重県の水産高校に進学した。
伯母一家から離れたいというのが第一。また、カナダにいた母方の祖母が、真珠養殖業の社長と知り合いで、「将来を考えて水産高校へ行ったら」とアドバイスしてくれたことも念頭にあった。
ただ、そんな期待とは裏腹に、真珠養殖への興味は全然持てなかった。
「もう、実習とかでやっても、全然面白くないの(笑)」と笑いながら振り返る。
かわりに、当時一番情熱を持てたのが、ボクシングだ。
先述したとおり運動は得意ではなかったが、映画「ロッキー」に感化されていたのもあり、ボクシング同好会の張り紙を見つけると、すぐ入会した。
その後、学業もそっちのけで、ボクシング一筋の高校生活を送ることになる。
高校卒業後は、田舎暮らしにも飽き、いったん神戸に戻った。
しかし、伯母一家のところに帰る気はさらさらない。なんとか、建築現場で建材を運ぶ仕事にありついた。肉体労働は嫌いではなかったという。
「やりじまい(やったら、終わり)の仕事なので、気に入ってたんです。決められた荷物を全部運べば終わりだから。USJや関西空港の現場にも運びに行ったんですよ」
そのまま日本にとどまるという選択肢もあったのかもしれない。
しかし、新たな転機が訪れた。きっかけは、またもや母方の祖母だった。
カナダで出会った
「カジノ」と「ギャング」
かつて進路をアドバイスしてくれた祖母は、まだカナダにいた。
彼女と彼女の家族を頼って、トロントに渡った。ただ、永住する気はなかった。なにより、明確にこれをやりたいという仕事も思いつかない。
日本で肉体労働で稼いで、その資金を元にしばらくのあいだはカナダで生活する。そんなカナダと日本との往復生活が30歳まで続くことになる。
とはいえ、カナダでは、人生を変えるような出会いがいくつもあった。
その1つが「カジノ」だ。現地のクラブで仲良くなった友人が、連れて行ってくれたのだという。
初めて行ったカジノの、きらびやかだがアンダーグラウンドな世界観にどっぷりハマった。人生で初めて、「カジノ業に関わりたい」という夢ができた。
勉強の意味で、高級なカジノから裏通りの店まで見て回り、ついにはアメリカ・ラスベガスにまで足を伸ばした。
ロミオさんが、カナダでカジノディーラーとして働き出すのは、自然の流れだった。
2つめの出会い、それは決して幸福な出会いとは言えないかもしれないが、「ギャング」との交流ができたのもこの時代だ。
カジノにはアウトローな客も出入りする。ディーラーという仕事柄、彼らとのやりとりは避けられなかった。
また、自分にも同じ血が流れているということもあり、メキシコ人のギャングで馬が合う人間とは、つるんで飲むようにもなった。ときには、ギャングたちがドラッグを扱うようなバーにも出入りした。
日々の生活に、少しずつ不穏な足音が忍び寄っていた。
そして、27歳のとき、事件が起こった。
のちに無罪で出られたものの、ギャング同士の縄張り争いのケンカに巻き込まれて捕まり、拘置所に送られてしまったのだ。
ロミオさんは、その日のことを、いまでも鮮明に覚えている。
「拘置所には長い廊下があって、人が逃げられないように、壁の上にだけ窓が連なっているんです。僕が入れられたのは夕方で、日差しは少しは入るけれど、目の前には暗い廊下が続いていて。看守に挟まれて、その廊下を歩いている自分のことを思うと、堕ちたもんだな、って」
数か月にもわたる拘置所生活を終えて、改めて自分の人生について考えた。
このままここにいて、またギャングとつるむ生活に戻ったら、今度こそ本当にダメになる。
ギャングと距離をとりながら、今後の進路を模索した。そして出した結論が、日本に戻ることだった。
日本初の
メンタリズムバー、開店
神戸に舞い戻り、しばらくのあいだは、また肉体労働で食いつないでいた。生活を立て直したいという切実な思いはあるものの、具体的になにをすべきかがわからない。
カジノ業に関わりたいという夢はまだ持っていたが、2002年の日本では、それを叶えることはできなかった。
気づけば30歳になっていた。気持ちばかりあせるが、打開策が見つからない。
そんな生活から抜け出るキッカケになったのが「マジック」だった。中学生のころから趣味でやっていたマジックを、もう一回やってみよう、ふとした瞬間に思ったのだ。
友人がやっているバーなどに頼み込んで、タダでいいからとマジックを披露する日々。評判は上々だった。
噂を聞きつけた女性から、初めて有料のオファーをもらった。市内の幼稚園で100人くらいの園児の前でやってほしいと依頼されたのだ。
「少ししか出せないけど…」と手渡された謝礼は1万円。
「今となっては不思議なんですが、その1万円札を握って、俺、これで生きていくことになるなって、思ったんですよ」
その直感は正しかった。
ある日、ロミオさんは街で中学時代の同級生にばったり遭遇し、その数日後に予定されていた中学の同窓会に誘われた。そこでもマジックを披露すると、いつものように拍手喝采。
そして、1人の同級生から声をかけられた。彼は大阪のミナミにあるフードテーマパークをプロデュースしていて、「うちの店でもやってよ」と頼まれたのだ。
もちろん、断る理由はない。
しかし、話は予想以上に大がかりだった。既存店で1時間とか2時間とかマジックを披露してくれという依頼ではない。閉店する予定のお店の代わりに、新たにマジックバーを開いてくれないかと言われたのだ。
「店を開くなんて、いままで一度も考えたことがなくて。相場よりは全然安いんですが、保証金のようなお金もかかるし、ちょっと考えさせてとは言ったんです。でも、せっかくもらったチャンスだしなと」
店を持つと決意してからは、早速コンセプトを練った。
当時はマジックバー流行りだったが、どこもかわり映えしない演出のお店ばかり。他店と同じようなことをしても仕方がない。
そこで役立ったのが、昔カジノの勉強で行った、ラスベガスで見た光景だった。
「昔、ラスベガスに行ったときに見た、マックス・メイビンという、僕らにとっては神みたいなメンタリストがいるんです。お客さまの考えていることをピタリと当てる、そのパフォーマンスが本当にすごくて」
そこで、彼をお手本に、店を日本初の「メンタリズムバー」にすると宣言。
メンタリズムとかメンタリストという言葉を知る人がほとんどいない時代、反対は大きかった。それでも、「絶対これで行けるから」と押し切り、あとは海外からメンタリストのビデオを取り寄せたり、心理学の本を読み漁ったりと、研究を重ねた。
こうして作り上げた、メンタリズムをベースにした「メンタルマジック」は口コミで評判になった。そのあまりの反響に、2か月後には、近所の宗右衛門町に、2店めのマジックバーをオープンすることになる。
フードテーマパークは朝の10時から夜の10時までの営業。そのあとは朝までやっている宗右衛門町のお店に顔を出す。こんな生活が5年近く続いた。
目まぐるしい忙しさだったが、これまでにない充実感を覚えていた。お店で、その後妻となる女性とも出会った。
ようやく心の平穏を得ることができたが、この生活もずっと続くわけではなかった。
素顔のロミオさんは、大量のサインにも気軽に応じてくれる紳士だ。
命がけの
香港への逃避行
2008年、リーマンショックが起き、お店からお客さんの足が遠のき始めた。
当時はマジックバーに限らず飲食店は打撃を受けたものだ。ロミオさんは、思い切って2軒とも店を閉めた。
このまま大阪にいてもいいのかと思っていたときに、声をかけてくれた女性がいた。
彼女はお店を始めて4年め、東京からちょくちょく遊びに来るようになった人だ。仕事は水商売をしており、一晩でたくさんお金を落としてくれる、太い客だった。
「一緒に東京に来ない? 私があなたのマネジメントをしてあげる」という誘いに対して、正直迷った。そのとき、すでに妻と一緒に暮らしていたからだ。
しかし、もしかしたら仕事にありつけるかもしれないと、半信半疑で東京について行った。これが大きな間違いだった。
彼女は豊富な人脈を持っていて、夜な夜な大物芸能人がオーナーをしているという店に連れ回された。
そこでかわされる会話は、ロミオさんをどんなキャラで売り出すか。自分は蚊帳の外に置かれ、彼女や取り巻きの怪しい人々が、どんどん話を進めていく。
結局、「霊能者」として売り出そうということになったが、さすがにこの案は飲めなかった。
もう我慢できない、帰りたい。そう言うロミオさんに対して、彼女は「社会的隔離」をするようになった。これは本にも書かれているエピソードだが、DVの一種で、「行動を常に監視したり、友人や家族との関わりを制限する」とう形の暴力だ。
パスポートを取り上げられ、常に一緒に行動させられる。ときには暴力団の会合にも連れて行かれ、逆らえないという恐怖を植え付けられる。
そんな日々の中、隙を見て妻へ電話をかけ、相談した。2人で出した結論は逃げること。しかも簡単に追っては来れないだろう、香港へと逃げることだった。
そのあいだにも彼女の束縛はどんどん強くなり、ついに「結婚しよう」とまで言われるようになった。ここでロミオさんは一計を案じた。
「わかった、結婚しよう。せっかくだから、新婚旅行にでも行きたいね」
そう言って、再入国許可が事前に必要だからと彼女を説得し、パスポートを返してもらって外出の許可を得た。そして、すぐに旅行代理店に務めている友人に電話を入れた。
「頼む、至急、この日の香港行きのチケットを取ってくれないか」
代金は妻に振り込んでもらった。あとは何食わぬ顔で当日を待つ。
彼女にはスポーツジムに行くと告げて、ジム用のカバンを持って、家を出る。
しかし、真の行き先は入国管理局。再入国許可の手続きを済ませたあとは、タクシーに飛び乗り、羽田へ直行。そのまま香港へと飛び立った。
生まれ故郷で
舞い込んだチャンス
一週間後、妻も香港で合流した。とりあえずアパートを借りるも、仕事をしないことには始まらない。当面は日本語教室の教師のアルバイトで食いつなぐとして、それだけでは満足な生活は望めそうになかった。
ここでも、すがったのは「マジック」だった。かつて、これで生きようと決めた、自分の武器だ。
まずは日本人がやっているバーを探した。そして何回か客として通って、店長と仲良くなる。そのタイミングで、頼み込んだ。
「チップ制でいいから、ここで俺にマジックをやらせてくれないか」
店側がギャラを払うわけではないし、すんなりOKが出た。
さっそく、以前のようにお店に立つ。といっても、1日のチップは、日本円で4000円か5000円くらいいけばいいほうだった。
ところが、ここで運が回ってくる。
その店長が急にお店を辞めたいと言い出したのだ。その後、違う人間が店長になったが、こちらもすぐに辞めてしまった。
「だったら、僕がやりましょうか」とオーナーにかけ合った。日本でマジックバーをやっていた実績を伝えたら、二つ返事で任せてくれた。香港版「メンタリズムバー」のスタートだ。
日本のお店のとき同様、口コミでお客さんは増え、どんどんチャンスが舞い込んでくる。
「バーのお客さんで、香港大学に勤める方がいたんですね。僕を面白がってくれて、パーティーに誘ってくれたんです。香港にはパーティー文化があって。驚くような大富豪の方主催のパーティーや、メディアの方が来るパーティーへ、次々に連れて行ってくれました。その中で、講師の話もいただいたんですよ」
2010年、ロミオさんは、香港大学の「メンタリズム」の講師として抜擢された。
表面的なトリックのみを教えるのではなく、そのトリックを成立させる心理学を丁寧に教えたため、人気授業となった。
日本でメンタリズムバーをオープンさせるまでの研究が、遠く香港で実を結んだ。
そのまま香港にいるという人生もありえたかもしれない。
しかし、香港で約3年暮らした頃、ロミオさんは帰国の決断をする。妻に子供ができたのだ。
守るものができ
日本へ
妻が出産することになったとき、香港での出産は考えづらかった。英語が得意ではない彼女に何かあったときのことや、家族のサポートを受ける可能性も考えると、やはり、日本での出産がベストだ。
日本に戻って無事子供が生まれ、いったん香港に戻ったものの、ロミオさんは悩み、そして結論を出した。
「正直、この状況をどうしようか、このまま香港で暮らし続けてもいいのかって。自分の中でも、日本から逃げてきたっていう気持ちがあって、全然整理がつかなかったんですよ。ちょうど子供も生まれたし、いったん日本に戻って態勢を立て直せないか。そう思ったんです」
子育てのことなどを考えて、妻の実家がある福井に住むことにした。あとは、自分の仕事探しだ。ところが、ここでつまずいた。
「これまでのように、マジックバーやメンタリズムのショーで稼いでいこうとしたんです。でも、お店に頼み込んで実演しても、正直、反応が薄いんですよね(笑) すごいねとは言ってくれるけど、そもそもお客さんが少ないお店だから、謝礼も全然出せないって。みんながみんなこんな反応だから、まったく仕事にならないなと」
自分の強みがまったく通用しない場所に来てしまったことを痛感する日々。それでもお金は必要だ。とりあえず運転代行の仕事などで日銭を稼いで、食いつないだ。
しかし、やはりマジックやメンタリズムへの思いは消えない。一念発起して、東京で一回メンタリズムのショーを行なった。これが、足がかりになった。
日本に戻ったときにつながった、かつての友人や仕事仲間。また、ショーをきっかけに知り合った新しい仲間。そこから、どんどん依頼がやってきた。
心理学の素養を生かした「ビジネス心理術」のセミナー、メンタリズムの教材DVD……、仕事の幅はどんどん広がっていく。そして、大きな柱が3つできた。
1つめは、先述した「ビジネス心理術」の講師。サービス業や接客業のビジネスの現場で、いかにお客さまの主導権をにぎれるかを指導している。
2つめは、「メンタリスト」。自身がショーをするだけでなく、最近では後進のメンタリストの育成にも力を注いでいる。
3つめは、「一般社団法人日本マインドリーディング協会」の理事。相手の心を読むことのプロ、「マインドリーダー」の育成団体を盛り上げている。
加えて、最近は、『気づかれずに主導権をにぎる技術』に代表される本の執筆も、大事な仕事の1つだ。
「カジノ業」に関わる長年の夢も忘れてはいない。
仲間内でオンラインカジノの運営計画が進んでおり、ようやく営業のライセンスがとれたところだという。将来的には、香港をメインに、中国、マカオと拠点を広げる構想だ。
プライベートも充実している。現在、妻との間に子供は3人。上から6歳、4歳、2歳。幼稚園のお迎えも、ロミオさんの仕事だ。
子供ができで、何か心境に変化はありましたかと聞いてみた。
「やっぱり守るものができたんでね……。がんばらないと。とにかく稼ぐだけです(笑)」
壮絶な半生を送ってきたとは思えない、やさしい父親の顔で、そう答えた。
ロミオ・ロドリゲス Jr. 1972年、香港生まれ。メンタリスト。ビジネス心理術の専門家。 幼いころよりイギリス、カナダ、日本とさまざまな国々で暮らし、4か国語を操る。 長い海外生活の中で、やむなくアウトローとの交流を持ち、幾多のトラブルに巻き込まれる中で、心理術を学ぶようになる。 その後、相手の心を読み、暗示をかけ、操作をするエンターテイメント「メンタルマジック」を確立し、日本で多くのテレビ出演を果たす。 2009年、香港に渡ってからは、経営、マネージメント、ビジネスのゲーム性の面白さに心奪われ、得意とする心理術との共通点に気づき、独自のビジネス心理術を作り上げる。 2010年には、香港大学の専修科でメンタリズムの講師として抜擢、本講義は受講生が教室に殺到する人気授業となる。 現在は独自のビジネス心理術をもとにしたセミナーを開催し、サービスや接客業のビジネス現場で、いかにお客様の心を読んで主導権をにぎるかを指導。 また、2015年、「一般社団法人日本マインドリーディング協会(JMRA)」を立ち上げるなど、さらなる心理術の開発・発展に尽力中。 著書に『気づかれずに主導権をにぎる技術』(サンクチュアリ出版)などがある。