好きにこだわれ~女子ボクシング世界王者を生んだ"行動力"の流儀~

とことん好きにこだわれ。こだわるたびに出会う、本当の自分と新たな世界。by MiyoYoshida | NY在住世界王者プロボクサー

#連載エッセイ
#好きにこだわれ~女子ボクシング世界王者を生んだ"行動力"の流儀~

好きを貫いて出産後に現役復帰。
2度の世界チャンピオンを経て
NYに娘と移住。誰もが再起は無理だろうと思われていた中での3回目の世界チャンピオンに。
好きにこだわった先に見えてきたもの。

はじめに/ご挨拶と自己紹介

この記事をご覧いただき、ありがとうございます。吉田実代と申します。
現在37歳、10歳の娘と共に2年前からニューヨークに移住しました。世間では“闘うシングルマザー”と呼ばれることが多いですが、私はただ、自分の人生に正直に向き合い続けてきただけです。女子ボクシングで世界2階級制覇というタイトルを手にしましたが、そこに至るまでの道のりは決して順風満帆ではありませんでした。
この文章を通じて、私がどのようにして「何者でもない自分」から「世界チャンピオン」へと成長していったのか、少しでも伝えられたらと思います。

コロナ禍に巻き込まれて、、、

31歳で念願の世界チャンピオンになった
横浜アリーナで大観衆の中、令和第1号の世界チャンピオンになり
TBSさんが主催の興行だったこと
闘うシングルマザーという事で沢山のメディアにも出演させて頂いた
海外修行にも積極的に出掛けた
まだまだ上を、次のステップアップを目指していたからだ
そんな矢先、コロナ騒動であっという間に生活が変わった
まだ何ものか分からないコロナにテレビのニュースを見ては怯えた
1カ月以上、食料品を買う以外の不要な外出は避け娘と自宅で過ごした

コロナ禍の最中。一緒に料理をしよくお手伝いもしてくれた娘。

慌ただしい毎日から一変して自宅待機が1カ月続いた
2人で沢山の料理を作ったり充分な娘との時間を過ごせものの先が見えない中、この先どうなるんだろう?と世界中の誰もが不安を抱えた時期ではなかったでしょうか?

コロナ禍での決断が人生を変えた

コロナ禍で、日本全体は最悪な状況だった
ボクシング界も例外ではなく、娯楽からまずは自粛するべきという考えから軒並み試合が中止になった
中にはボクシングジムも廃業したり、ボクシングを引退する選手もちらほら出たりしていた
どこの経営状況も大変だったと思う
ボクシングの興行というのはジムにもよるが、 チケットを手売りしたり興行に向けてスポンサーを探したりしなければならず、営業活動と練習、更に子育てとの両立は本当に大変だった
コロナ禍、ボクシング界は大打撃を被り試合をする際に今までとは形態が変わるという主旨の議論を何度行った 練習の制限など
仕方のないことばかりだったが
この3つの両立が精神的にも肉体的にも
かなり難しいものになっていてこれ以上頑張ることが難しくなった為にジムを移籍する決断を下した
悩みに悩んだが
今まで無理をして営業したりチケットを売ったりと頑張っていた状態だったので
コロナ禍になり更にもう少し頑張らないといけないと分かった瞬間に私はもうこれ以上は無理だという気持ちになった
実はこの少し前から練習をすると吐き気をしたり
耳鳴りが片耳だけずっとキーンと鳴り続けて止まらなかった
これは移籍した先でもずっと治らず
かなり辛い精神状態でやっとかっと練習をしていた
何より練習を休むのが怖かった
ボクシングが好きだったからだ
だから好きをこだわった

今思えば、28歳から34歳まで毎試合がタイトルマッチ
それに対するプレッシャーなど
知らず知らずのうちに心身が悲鳴をあげていた

移籍初戦は大阪での試合だった
大阪までの移動は車移動
更に準備期間の1カ月は電車移動で感染のリスクを防ぐ為にジムの近くのウィークリーマンションを借りて娘と過ごした


1年ぶりの防衛戦で敗れ
半年後にリベンジをして世界チャンピオンを取り返した
更にコロナ禍で試合が出来ず1年ぶりの初防衛戦でまた敗れた
この時薄々気づいていた自分の気持ちに気づいた
日本のボクシング界で続けていくモチベーションが残っていないのだと
女子ボクシングというマイナースポーツの宿命でもある
コロナ禍が良くも悪くも全てを変えた
コロナ禍が無ければきっと移籍せずNYにも移住していなかっただろう
人生とは本当に選択の連続だ

元々居た場所を離れるということは精神的にも
肉体的にも負担がかかる
お世話になっていたり様々な思い出があれば尚更だ
しかしいつだって自分の好きにこだわってきたから
一つの場所に留まらないことは
時には不誠実に見られる時もあるだろうが
一見、不誠実に見られがちなこともとことん誠実に本音を伝えることにより
今までお世話になったどのジムも関係は良好で顔を出したり出来る仲にいます
好きにこだわるなら嫌われる勇気も必要
ただ体調を崩していることだけはほんの一部の人にしか言えませんでした
ファイターとしてのプライドでしょうか、、、、
今はすっかり体調も良くなり耳鳴りもなくなりました
頑張り過ぎるとついつい見落としがちですが
身体からのSOSは見逃さないようにしましょう

好きにこだわった先の未来

2回目の世界チャンピオンの座を失った瞬間に
意味不明な発言をしていたのを今でも覚えている
あー。もう誰も知らない場所で試合したい
我ながら、相当参っていたんだなと思う。笑
辞めようとも考えたが、どうせ辞めるなら最後にやりたいこと全部やってもう自由に生きよう。と良くも悪くも自由に生きる決意をした。
王座陥落した私を心配してハワイの師匠が骨休みに来たらと呼ばれ
負けて3週間後にはハワイにいた
人生を変えてくれた原点の場所
今までの道のりを振り返り、自分の気持ちと向き合った
師匠のアドバイスもあり
アメリカの舞台に挑戦しようと決めた🇺🇸
まずはVISAを出してくれるプロモーターを探さなければならない
⚠️VISAが無ければ試合も出来ないしアメリカに観光以外で滞在することも出来ない
そこから翌月にはLA、ラスベガス、NYと自分と契約してくれそうなプロモーターを探す旅に出かけた
何か大きな人生に大きな変化がある時にいつも
何か見えない力に強く押される様な感覚がある

例えるならば
本当はAとBの選択がありAに行きたいけどAにはどうしても行かせてもらえない
移籍したくないけどしないといけない方向に進むなど
そうしてあれよあれよと流れに乗ってプロモーターを探す旅の最終地NYにて
着いて4日目でWBCのスレイマン会長と偶然出会いその関係者が世界中にレターを描いてくれた事で
なんと4日でアスリートVISAのスポンサーになってくれるプロモーターが現れたのだ
まさに奇跡だった
今、アメリカ在住の日本人ボクサーは私ともう1人だけだ
今は日本人選手が日本に住みながら頻繁にアメリカや海外で試合をする事はとても多くなってきたが
プロモーターはVISAを出す条件は娘と共にNYに移住することを条件とした

体当たりで色々なジムに出稽古に行き顔を売った