ここはカフェ「しくじり」。一見さんお断りの会員制だ。
ここでの通貨はしくじり。客がしくじり経験談を披露し、それに応じてマスターは飲み物や酒を振る舞う。
マスターは注意欠如・多動症(ADHD)の傾向を持ち、過去に多くのしくじりを重ねてきた。しかしある工夫で乗り越えてきた不思議な経歴の持ち主。会員のために今日もカフェのカウンターに立つ。
そんな奇妙なカフェのお話。
(カラン、コロン〜♪ カラン、コロン〜♪)
りんだ 「小鳥遊さん、こんばんは」
小鳥遊 「おや、りんださん。すみません、もう営業時間は終わりなんですよ」
りんだ 「ええ、いいんです。ちょっとしくじり話を聞いていただきたくて来ました。また来たときのためにツケておいてください」
小鳥遊 「普通のツケ客の逆パターンですね。いいですよ。またいらした際に何か料理をお出ししますね。洗い物や食器の片付けなどをしながら話を伺ってもよろしいでしょうか?」
りんだ 「はい、いいですよ」
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りんだ 「今日、面倒くさい仕事がきたんです。当社のある試作品についての感想をまとめて欲しいというものでした」
小鳥遊 「ほほぅ…感想の量はどれくらいあるんですか?」
りんだ 「それが、1000枚ほど…」
小鳥遊 「せ、1000枚!? それは大変ですね」
りんだ 「はい、もう始める前から嫌になってしまいました。作業自体は単純なんですよ。感想の紙を1枚ずつ見て、5段階評価で各評価がどれくらいあるかを集計するだけなんです。でも、とにかく面倒くさくて…」
小鳥遊 「そうですよね」
りんだ 「だから、『今日はやらない!』って自分で決めて他の仕事をしていたんです。そうしたら、上司から『試作品の感想のまとめ、今日一日でどれくら進みそう?』って聞かれて、とっさに『いえ、まだやっていません』って答えたんです」
小鳥遊 「他の仕事もありますしね」
りんだ 「そうなんです。でも上司からは、『なんでやっていないの?』って、ちょっと困ったような顔をされてしまって」
小鳥遊 「地味に辛い状況ですね。『上司を困らせてしまった』という罪悪感が湧いてきたりしますよね」
りんだ 「ええ、そうなんです。しまった~と思いました」
小鳥遊 「りんださんらしい、気遣いがあるからこそのしくじり体験ですね」
りんだ 「ううっ、ありがとうございます」
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小鳥遊 「ところでりんださん、ちょっと洗い物を手伝ってくれませんか?」
りんだ 「えっ!? 私が? いいですけど…」
小鳥遊 「ありがとうございます! こんなにたくさんの食器を洗ったり片付けたりするの、面倒くさいんですよね~」
りんだ 「(いったいこの人は何を考えているんだろう…。でも、たしかにこの量の食器は面倒くさい…)」
りんだと共に食器を洗いながら、小鳥遊はりんだに話しかける
小鳥遊 「りんださん、ちなみにその1000枚の感想はいつまでに終えなければいけないんですか?」
りんだ 「えーと、適当に見積もって『3週間くらいもらってもいいですか?』と言ってOKをもらったので…」
小鳥遊 「そうですか。3週間ですか…。となると、営業日ベースで15日ですね。一日当たりに換算すると、えーと、りんださん、計算得意ですか?」
りんだ 「小鳥遊さん、暗算苦手なんですね(笑)。そうですね、大体一日66枚ペースですね」
小鳥遊 「ええ、パッと暗算で計算するのは苦手でして。ありがとうございます。そうすると、今日は66枚進めれば良かったわけですね」
りんだ 「たしかにそうですね。1000という数字の大きさに意気消沈していましたが、小分けにするとできそうな感じがしてきますね」
小鳥遊 「たとえば1日あたり2時間かけられるとすると、1時間あたり33枚。1枚あたり2分弱でいけば問題なく期限までに終わりますね」
りんだ 「そっか…。1枚処理するのに必要な作業は、『評価の数字を確認する』『集計用紙に正の字を書いていく』だけだから、2分もかかりませんね。1枚ずつの作業だけに集中したら、気持ちが前向きになってきました」
小鳥遊 「いいですねー。ところで、洗い物は進みましたか?」
りんだ 「はい、お店の食器なので1つ1つ丁寧にやっていたら、いつのまにかかなり片付いてきました」
小鳥遊 「それです。良くない例えで『木を見て森を見ず』という言葉がありますでしょう? 実は、仕事を進めるには、あえて木を見て森を見ない方がいいときがあるんです。それが今です」
りんだ 「どういうことですか?」
小鳥遊 「おそらくりんださんはこの食器の量に『面倒くさい』と思ったはずです。その面倒くさいという気持ちが、実は物事を進めるのに最大の障壁になるんです」
りんだ 「たしかに、『できるけど、面倒くさい』って思ったものは先送りしがちですよね。今日の私のように」
小鳥遊 「そういうときは、あえて全体の量を見ないで、目の前の1つ1つだけ見るようにするんです。食器洗いであれば、今手に持っているその皿、そしてそれが終わったら、その次の皿だけ、というように」
りんだ 「でも、全体の量は把握しておかないと、どれくらいで終わるかが分からなくなりませんか?」
小鳥遊 「ええ、だからいったんはさらっと全体の量を把握するんです。この皿の量でしたら…そうですねぇ、30~40分ってところでしょうかね。その目算がついたら、あとは1つ1つの皿を洗うことに専念するんです」
りんだ 「感想の集計の仕事も、1000枚を3週間、1枚あたり2分弱でやればいいかと思えば、あとは1000枚の束を見てうんざりする必要はないですよね」
小鳥遊 「そうです。1000枚の書類の束を見たら、『これを終わらせるのにはどれだけ時間がかかるだろう…』と思ってしまって、逆に手が止まってしまうでしょう。森を見てはいけないのです」
りんだ 「なるほど、終わらせることを意識しすぎてはいけないんですね」
小鳥遊 「私は、洗い物をしているときによく、洗っているうちに時間が経って、洗い物もあらかた終わりつつある、といった状況がよくありました。森を見ずに木を見る、つまりたくさんあるお皿を見ずに、ただただ目の前の皿を洗うことだけに集中していたから、スムーズに洗い物ができたんじゃないかと思っています」
りんだ 「それ、分かる気がします。おなじことを仕事にも流用すればいいんですね」
小鳥遊 「はい。全体の手順を把握したら、最初の手順にだけ注目する。そうすれば、終わりまでの長大な道のりを意識してうんざりすることはありません。気軽に手を付けることができます。手を付けられれば、進みます。進めば、終わります。そういうことです」
りんだ 「そうですね。明日はこの戦法でトライしてみます! ありがとうございます」
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悩みが解決し、スッキリ納得した状態で店を出て行くりんだを見送ると、マスターはスマホを取り出し、日課の店じまいツイートをしました。