櫻井恵里子 私が著者になるまで

小学校の先生が内気な私にガラスの靴を履かせてくれました/櫻井恵里子

#私が著者になるまで

10万人以上のディズニーキャストの人材育成を担当し、現在は産業能率大学で教鞭をとる櫻井恵里子さん。
過去の自分と同じような「就職や転職、キャリアに悩む女性たち」のために初の著書を書いたという櫻井さんの、人生に迫った。

講演に、授業にと忙しい毎日を送っている櫻井さん。現在でこそ「人前で話すのも大切な仕事のひとつ」になっているが、小さなころはとても内気で、一人遊びが好きな子どもだったという。

櫻井家の一人っ子として生を受け、両親はもちろん、近隣に住んでいた祖父母にも愛情をもらってすくすくと成長。父は元商社マンで、のちに独立して会社を興し、バブル景気の中でずいぶん業績を上げた。経済的には裕福だったという。

「父はいつも忙しく働いていたので、家では専業主婦の母と二人で過ごす時間が長かったですね。祖父母のところによく遊びに行っていたこともあり、おじいちゃん、おばあちゃんが大好きでした。こうして比較的狭い世界で充足して育ったことも、内向的だった理由かもしれません」

「ディズニーの世界」との出会いは、幼稚園の年長でのお遊戯会がきっかけだった。シンデレラ役になったため、はじめてディズニーの絵本を買ってもらったが、そのイラストに心惹かれた。

「父が買ってきた英語版のシンデレラは特に美しく、繰り返し絵を見ては、ため息をついていました。あまりに気にいって、母に頼み込み、うわばき袋の刺繍を絵本と同じようなシンデレラにしてもらった記憶があります」

小学校に入っても内気な性格は変わらず、授業で答えがわかっていても手を挙げられないようなことがよくあった。しかし小学校3年の秋に、ひとつの転機が訪れる。

「夏休みの宿題で、祖父母に戦争体験を聞いてその話をまとめよう、というものがありました。夏休み明けにみんなの前で発表するということであまり気乗りはしませんでしたが、とりあえず祖父母に話を聞きに行きました」

そこで語られたのは、少女の想像を絶する世界だった。日常の中に死があり、いつ命を失っても不思議ではない極限状態。それを、ときに笑顔交じりで話す祖父母の言葉に、何度も胸を打たれた。

「特に覚えているのは、父方の祖父の話です。祖父は戦犯で裁かれるかどうかという高級将校でした。なにかあればいつでも自害できるようにと青酸カリを持ち歩いていたそうです。部下の部隊が暑い土地に行き、飢えと渇きに苦しみ、そこに水があるという幻覚を見て土を飲み込んで亡くなった……。部下の死体を、自らの手で焼いた……。私には想像もつかない戦争の真実を、たくさん語ってくれました。話し上手で、なぜかお尻ばかりケガしてしまう部下のことなどを笑い話として混ぜてくれたりして、とにかく飽きずにずっと聞いていられました。一方で、母方の祖父は前線の兵士で、敵地でマラリアに罹り帰国したのですが、その後、部隊は全滅。マラリアに命を救われたと言っていました。そうした経験談を聞いて思ったのは、自分はよくこの世に生まれたな、ということ。ひとつでもボタンの掛け違えがあれば、私は存在していなかったのだと、子ども心に思いました」

こうして“今、ここに在ることの幸せ”は、少女の胸に深く刻まれた。

夏休みが明け、それをみんなの前で発表したところ、クラスの誰もが興味津々に聞き入り、驚き、感動してくれた。発表が終わると、大きな拍手が聞こえた。そこで櫻井さんは、伝えることの楽しさや自分を表現する喜びを知り、自己を少しずつ周りに開いていくきかっけとなった。

もうひとつ、内気な少女の背中を押してくれたのが、当時の担任の先生だった。ことあるごとに櫻井さんのことを気にかけ、いつも肯定してくれた。

「私は他の人と同じことするのが苦手でした。例えば飼育している鶏を描くという授業では、みんなは先生の見本と同じように鶏の正面や横を描くのに、私だけお尻を描く。そうしたことがあるたび、他の先生はみんな私を注意しましたから、私はますます自分の世界にこもりました。でもその先生は、どんな絵を描いても、褒めてくれ、いいところを見つけてくれました。それで次第に自分に自信がついたのは、大きかったと思います。先生に出会わなければ、私は今でも内向的なまま、別の仕事をしていたかもしれません。思えば先生が私に、“ガラスの靴”をくれたんですね」

こうして櫻井さんは徐々に積極的になっていく。祖父から才能を受け継いだのか、話すことも実は得意で、いつしか周りには自然に人が集まるようになっていた。

自らが「人生の華の時代」と語るのが、中学時代だ。勉強もできて、運動も得意、積極性もあっていつもクラスの中心にいる人気者。まさにシンデレラのような、中学校のプリンセスとなった。

「すべてが思い通りで、この世に苦労などないだろう、というような無敵の状態でした。もしそのまま成長したら、鼻もちならない大人になっていたでしょうね」

高校は、男女の割合が4:1の男子校に近いような共学校に進学した。もともと音楽の先生になりたかったため音楽大学付属の高校に入りたいと家族に相談していたが、父が猛反対。音楽で食っていけるわけはない、先生なら普通の高校でもなれるはずだ、と許してはくれなかった。

「私をいわゆる“お嬢様学校”の付属校に行かせたがっていることは知っていました。だから私はわざと真逆の道を選びました。勝気で、なんだか嫌な感じですよね(笑)」

高校でも、男子と気後れせずに話せる櫻井さんは、瞬く間にプリンセスとなった。女子が少ないこともあり、学園のアイドル的な人気だった。

しかしそんな「華の時代」は、長くは続かなかった。魔法は解け、殺伐とした現実が、容赦なく突きつけられることになる。

人生が突然、暗転した高3の春
想像すらしていなかった悲劇が続く

高校2年になったころ、櫻井さんは家庭の雲行きが怪しいことに気づいた。

やさしく快活だった父が、ふさぎ込み、怒りっぽくなった。夜中には母と話し込んでいる雰囲気もあった。具体的な原因を話してくれることはなかったが、両親の不仲は櫻井さんにとって大きなストレスとなっていった。

そのストレスが表面化したのが、高校3年の春だった。

「最初は胃に痛みがありましたが、我慢して生活していると次第に背中が痛くなって、最後にはのたうち回って、病院に運ばれました。病名は急性膵臓炎。原因はストレスということでした」

入院中にも、気になることがあった。毎日、見舞いに訪れる母の様子が、どうも尋常ではなかったのだ。

「母がどんどん疲れ、やつれていったんです。太陽のように明るい人だったのに、笑うことがなくなり、次第に悲壮感が漂うようになりました」

1か月半の入院の後、幸いにも症状は回復し、櫻井さんは無事に退院した。

しかし、帰った先は、もはや自分の知る実家ではなかった。両親の憔悴はいよいよきわまり、家の中には陰鬱とした空気が流れていた。

そして、退院して数日後。櫻井さんはその原因を知ることになる。

学校から帰ると、慌てた様子の両親が揃っていた。私の顔を見た母はしばらくの沈黙のあと、おもむろに口を開いた。

「お父さんの事業が失敗して、この家を出ることになったの。明日までに引っ越ししなければいけないから、これから荷物をまとめて」

いわゆる“夜逃げ”だった。

切迫した様子の父に気おされる形で、荷物をまとめた。現実感が乏しく、「ピアノは持っていけるかな」と聞いたところ、「そんなもの持っていけるわけないだろう!」と怒鳴られた。

「後で知ったのですが、父は方々に借金を抱えており、財産をすべて差し押さえられていました。家もすでにこのときには他人の手に渡っており、夜逃げをするしかない状況だったようです」

母が借金に巻き込まれることを防ぐため、父と母は離婚。父とは別居し、母と暮らすことになった。

新居のアパートは、1DK。これまで住んでいた家のダイニングの広さすらなかった。壁が薄く、隣に住む外国人夫婦が喧嘩をする声がしょっちゅう聞こえてきた。

「私の家のことが噂になったのか、友達の態度が変わり、去っていく人がたくさんいました。仲良しだった友達のお母さんから『なにも気にしなくていいからね、これまでと変わらずうちの子と友達でいていいのよ』と言われたときには、悪気がないとわかっていても、悲しくて涙がこぼれました」

しばらくして、ようやく新しい生活に慣れてきたかと思った矢先に、状況はさらに悪化した。

学校から帰って家にいると、扉が何度も強くノックされた。不審に思いつつも出てみると、あきらかにガラの悪い二人の男が立っていた。

いくら離婚していようが、借金の取り立ては容赦がない。櫻井さん母子の家を特定し、“追い込み”をかけてきたのだった。

「その日は怖くて、ひとりお風呂の中で震えていました。その後も彼らは何度も家にやってきて、私や母を脅していきました。私の高校にまで探しに来て、友達に私の居場所を聞いてまわっていました」

心は次第に追い詰められ、「もう限界。次に来たら相手を包丁で刺して、私も死ぬから」と母に言ったこともあるという。

そうした極限の日々の中でなぜか思い出したのは、祖父母の戦争の話だった。

“今、ここに在ることの幸せ”が無意識に心に刻まれていたせいか、絶望の淵の手前でなんとか踏みとどまり、生き続けるという選択ができた。

肉親以外で唯一櫻井さんを守ってくれた大人は、高校の担任の先生だった。借金取りが学校に押しかけてきたときにも、「お前は保健室に行っていろ」といい、自らが前面に立って追い返してくれた。

高校の同級生は大学入試で忙しい時期だったが、それどころではなかった。空いた時間はすべてアルバイトに充てても、生きていくのに精いっぱいだった。

年金暮らしだった母方の祖母からお金を借り、なんとか卒業まではこぎつけたが、櫻井さんの胸には不安しかなかった。

卒業式の日。父は、居所が知れなかった。母は、自分を養うため身を粉にして働いていた。櫻井さんはひとりで卒業式に臨んだ。

式が済み、3年J組の教室で最後の挨拶が終わり、みんなが卒業の高揚と将来への期待を胸に抱いて足音軽く教室を出ていく中、櫻井さんはいつまでも、席から立ち上がることができなかった。

「私以外は全員進学し、進路が決まっていない子はひとりもいませんでした。この教室を出てしまったら、私はどこも行くところがない、自分は何者でもなくなる。そう思うと、怖くて動けませんでした」

早春の日差しがやや傾き、光に赤みが加わったころ。がらんとした教室に、担任の先生が入ってきた。先生は櫻井さんの肩に手を置くと、絞り出すように「教育実習、待っているから」と言った。

「それを聞いて、ああ、先生は私が大学生になることを信じてくれている。教職課程をとって母校で教育実習をする可能性を期待してくれている。救われました。そして、なんとしてでも大学に行きたい、と強く思いました」

予備校に行けない浪人時代
母と二人で見た「エレクトリカルパレード」

大学に行くという新たな目標を胸に、浪人生活が始まった。

とはいえ、予備校に行くお金はなく、勉強の時間もなかなか取れなかった。大学に行く資金を貯めるため、毎日、毎日働いた。

「ファーストフード、スーパーのレジ打ち、薬局……いろいろなバイトをしました。母も私の希望を叶えるため、一生懸命働いてくれました。とにかくどんな大学でもいいので、絶対に行きたかったです」

このころ、大学に行ったら学びたいと思うようになった、あらたな学問があった。

「心理学に興味を持つようになったのですが、それは父の影響だと思います。あんなにいきいきとしていた父が次第に変わりゆく姿を見て、なぜ人間は心で行動がこんなに変わるのか、知りたいと考えるようになりました」

相変わらず家には、定期的に借金取りが訪れていた。精神的にも肉体的にも厳しい日々が続いたが、大学に行くという目標のもと、なんとか走り続けた。

そんなある日、母方の祖母が、「たまには息抜きをしておいで」と、チケットを2枚くれた。それは、ディズニーランドのペアチケットだった。

「現実を生きるだけで精一杯だったので、正直『夢の国なんて行ってる場合じゃない!』と思いました。しかし、祖母がせっかく買ってくれたチケットを無駄にするわけにもいかず、母と休みを合わせて、ディズニーランドに行ったんです」

早起きをして、疲れのとれない体を引きずり、なんとか電車に乗り込んだ。

ディズニーランドに入ると、櫻井さんの目には、たくさんの笑顔が飛び込んできた。

「なんというか、場のエネルギーがすごかった。見渡す限り、笑顔ではない人はいませんでした。お客さんも、働いている人も、どうしてこんなに楽しそうなんだろう。そんな印象を抱きました」

次第に自分が、シンデレラに憧れていた記憶がよみがえってきた。気が付けば母と二人、童心に返って、夢の国を楽しんでいた。

夜になり、名物である「エレクトリカルパレード」を見たとき。母が、となりで静かに泣いていることに気づいた。「どうしたの?」と聞くと、「人間、やっぱり夢がなければだめ。私はあなたを、絶対に大学に行かせるから」と答えた。

「改めて母が、どれだけ自分を大切に思ってくれているかを感じ、うれしいというか、なんだかとても安心しました」

そうしていよいよ、受験シーズンに突入。とはいえ、好きな学校を受けられるわけではなかった。勉強はほとんどしておらず、受験料を考えれば何校も受ける余裕はない。また、遠くまで通うほどの交通費は払えない。結果的に、間違いなく合格できて、家の近くにあり、バスで通える大学を選んだ。その大学には、学びたいと思っていた心理学部もなかった。

「それでも、どうしても大学生になりたかった。とにかくどこかに入れば、人生が変わるような気がしていたのかもしれません」

そして無事に、大学に合格。晴れて自分の居場所と新しい身分を手に入れることができた。

大学生活を始めるにあたり、母からは「大学生らしいことをしてほしい」と言われていた。だからアルバイトを少し減らして、チアリーディング部に入った。生活はさらに貧しくなったが、大学の友人たちが支えてくれた。

「毎日誰かが、家まで車で迎えに来てくれました。表面上は“恵里子は、車じゃないと学校に来ないからね!”なんて茶化していましたが、私の生活が厳しく、バス代すら渋っていたことは、みんなが気づいていました」

大学時代には、ホテルや介護施設など、ホスピタリティにつながるようなアルバイトを意識的にたくさんやった。

「やはり心理学がやりたくて、人と人とのコミュニケーションに興味があったんです」

教職課程も選択し、先生になるための勉強も続けた。そして大学3年のとき、母校の高校に、教育実習に行く機会を得た。

学校の門をくぐると、恩人だった当時の担任の先生が、真っ先に出てきてくれた。互いに思わず、涙を流した。

「『あのときは、かける言葉がなかったけれど、本当に戻ってきてくれてうれしい』。その先生の言葉で、父への憎しみや自分への哀れみといった心の冷えた部分が、あたたかくなった気がしました」

そして、就職期。櫻井さんは就職先選びにずいぶん迷ったという。

「先生になる道ももちろん考えましたし、大学院に残るというのも魅力的でした。しかし最終的に、母をこれ以上働かせることはできない、という思いが勝り、とにかく少しでも早く、できるだけいい企業に就職して、生活を安定させようとしました」

そこで候補に挙がったのが、ディズニーランドを手掛ける、株式会社オリエンタルランドだった。母校からの就職実績はなかったが、挑戦することにした。

「キャストが輝きながら働ける理由を知りたい。どんな教育をしているのか、見てみたい。そう思って、受けてみることにしました」

他にも、金融業界や保険業界の会社をいくつか受けていたが、ことごとく不採用。その理由を考えていくうちに、実力が足りないことに加え、どうやら家の影響も小さくはないことに気づいたという。

「名だたる企業はすべて、就職希望者の与信調査を行っていることを知りました。金融や保険はとくに敏感で、父がブラックリストに載っていることなどすぐにわかります。こんなところで差別されることもあるんだなと、ショックを受けました」

オリエンタルランドも、いつ落とされてもおかしくないと覚悟していたが、思いのほか順調に進み、最終面接までこぎつけた。そこで面接官に聞かれたのが、「あなたにとって最大の挫折経験はなんですか」という質問だった。

「私はそこで、父のことを包み隠さず話しました。与信調査のことは当然念頭にありましたが、最終面接まで進んだことが私にとっては奇跡で、ここで落とされても悔いはありません、と伝えました」

それを聞いた面接官は、しばしの沈黙ののち、「ウォルト・ディズニーが苦学生だったことを知っていますか」と言った。「彼の父も事業に失敗していて、ウォルトも子どもらしい子ども時代を過ごせませんでした。それが彼の原動力となり、子どもに夢を与える場所を作った。あなたはきっと、当社のブランドに合うでしょう」

未来への門が、開かれた瞬間だった。

 

現在は、産業能率大学で教鞭をとる櫻井さん。テーマパークを中心とした「ホスピタリティ」を研究する櫻井ゼミは、学部内で一番人気を誇る。

キャリア支援の仕事が、
心理学の世界に通じていた

オリエンタルランドでは、商品販売部に配属。そこから商品開発へと移った後、入社4年目で人事部に配属された。それが櫻井さんにとっての大きな転機となった。

「人事部では最初、人材育成を手掛けていましたが、途中からキャリア形成支援を考える仕事に移りました。従業員の人生そのものであるキャリアについて考える仕事だったのですが、当時の私はキャリアという言葉の意味すら正確にわかりませんでした。そこで、社外のキャリア系のセミナーや勉強会に片っ端から参加したんです」

その中で、筑波大学でキャリア心理学やキャリアカウンセリングを専門に教えている教授のセミナーを公聴する機会に恵まれた。

「私がもともと興味のあった心理学の領域の話も出てきて、とても共感しました。講演後にすぐにアポイントを取って研究室におじゃまして、キャリア形成支援施策に伴う企画について相談しました。その後も、研究室に何度か足を運んだのですが、それだけ興味があるならいっそ大学院を受験してうちの研究室にこないか、とお誘いいただいたことが、転機となりました。過去に勉強できなかった心理学を学べる最後の機会かもしれない。そう思って、受験することを決めました」

大学院には無事に合格し、2009年の春から、筑波大学大学院人間総合科学研究科生涯発達専攻の社会人学生として、通うことになった。

「心理学の大学院なので、老年心理学や学校心理学などいろいろな分野の授業がありました。同期の学生も、福祉系や高校の先生、企業の上級管理職などさまざまな人がいて、普段では知れないような業界の話が聞けて楽しかったです」

一方の仕事でも、さらなるキャリアの変化があった。大学院に入ってすぐに、「ディズニーアカデミー」の担当に指名されたのだ。

「仕事としては、これまで内部でやってきたディズニーフィロソフィー研修を、外部の法人に提供するという内容でした。それまで内部の人材教育はたくさんやってきていましたが、会社の看板を背負って、外からお金をもらってやるということで、内部とは違うプレッシャーがありました。ディズニーアカデミーの事業はベンチャー的に始まり、部隊も10人程度と少ない人数で回していました。セミナー講師の教育から、マスターインストラクターのプログラム開発、そして営業まで、ひとりでなんでもやっていましたね」

同僚は、毎日残業をして、忙しく働いていた。当時は会社内で大学院に通学できる仕組みもない状況で、自分だけが「大学院に通っている」という個人的な理由で、休むことはできなかった。

「仕事をいったん17時に上がって、18時半から2~3コマほど講義を受けて、22時には再び会社に戻って仕事。深夜にタクシーで帰るような生活をしていました」

そんな日々を2年続け、大学院を卒業するころには、心理学の領域をはじめとした専門知識と、ディズニーの人材育成のフィロソフィーのすべてを吸収することができていた。このころの経験は、のちに本を執筆する上での礎となった。

また、ディズニーアカデミーのクライアントとして、大学の当時の学部長(現学長)と出会ったことが、その後のキャリアを決定づけた。

「ディズニーアカデミーの体験会に来られていて、そのアンケートに、『ぜひ取り入れたい、学生に受けさせたい』と前向きなコメントがあったので、私からアポイントをとってセールスをかけに行きました。そのときは、のちに自分がその大学で働くことになるとは、思いもしませんでした」

あのとき助けてくれた先生のように、
私も誰かの力になりたい

もうひとつ、人生の転機となったことがあった。

34歳で現在の夫に出会い、35歳で結婚。子宝にも恵まれ、37歳で出産を経験した。

そうして一児の母となって、改めて思うことがあるという。

「日本社会では、女性が妊娠すると社内評価が下がる風潮があります。一方で、女性の側も子どもがいることを既得権益として、『子どもが大事だから』と、申し訳ないの一言もないまま仕事を早退したり、欠勤したりする人がいるように感じます。これは個々の企業の問題というより、日本社会が構造的に抱えている課題だと思います。夫や祖父母の協力があれば女性が全力で働きながら子育てをすることは可能ですし、もし協力を得るのが難しいとしても、ベビーシッターを雇うこともできます。“子どもは母親といるべき”という考え方も確かに理解できますが、それに縛られすぎると、キャリアにおける自分の可能性を試すことがないまま、人生が終わってしまいます。私が『心くばりの魔法』を書いたのは、そんな社会にあってでも、女性が前向きに仕事をして、いくつもの壁を越えてキャリアを積み重ねていくのを応援したかったからです」

自分自身も、そうした葛藤を抱えつつ、産休後1年は、オリエンタルランドに勤務した。気づけば入社して17年、年齢も40歳に届きつつあった。

「心理学のユングは、人の一生を太陽の運行になぞらえて、40歳からは“人生の午後”に入ると言っています。折り返し地点を迎え、自分はなにをすべきなのか……。人生を振り返れば、私はいつも、先生に助けられてきました。人生の午後を向かえ、自分が本当にやりたいこと。それは、やはり人を育てることだと思い当たりました」

実は産休中に、大学から講師をやってみないかという誘いを受けていた。

「大学は究極の人材育成の場、不安はあるが、飛び込んでみよう」と、40歳にして大きなキャリアチェンジを決断した。

「いい先生になって、私の人生を支えてくれた先生たちに恩返しがしたいという気持ちもありました。私と同じように苦労している若者たちに、逆境でもあきらめずに生きれば、きっと報われるときがくることを伝えたいという思いもありました」

櫻井さんには、19歳から続けている習慣がある。それは、「夢ノート」をつけることだ。

「苦しかった当時は、夢にすがって生きていたところがありました。夢ノートをつけて、将来はきっと楽しいと考えることで現実逃避をしていましたが、今でもそれが習慣になっているんです」

夢ノートを開けると、言葉だけではなく、たくさんの写真も貼ってある。結婚式は、こんなところでやりたい……。いつかは本を出版したい……。いくつもの、祈りにも似た願いが、ノートに並ぶ。

「叶ったものには、星マークをつけているんです。どうですか。意外に叶っていると思いませんか」

櫻井さんはそう言って、少し恥ずかしそうにほほ笑んだ。

まだまだ、人生は続いていく。

今後も星の数は、きっと増えていくだろう。

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大学の研究室には、大切な“思い出コーナー”が。開発を担当した「ファンカチューシャ」や、オリエンタルランド退職時に仲間たちにもらった色紙が飾られている。

(取材/文 國天俊治)

 

櫻井恵里子
10万人以上のキャストを育てた、元ディズニーのカリスマ人材トレーナー。
東京都立川市出身。1998年に株式会社オリエンタルランド入社、商品開発部で現在もヒット中の「ファンカチューシャ」を開発し、年120%以上の売上増を記録。2003年から人財開発部門にて人材トレーナーを担当。その後、人事戦略、調査、キャリア支援などを担当。2009年から外部法人向けに「ディズニーのおもてなしの考え方」を伝えるセミナー事業部門にて、講師、研修開発を担当し大人気を博す。
人事戦略から、調査、採用、教育、キャリア開発までを手がけ、これまでに15万人以上の人材育成にかかわる。2011年からCS推進部で調査分析を行い、同社の膨大な顧客データから顧客満足の本質とホスピタリティのあり方を学ぶ。
現在、産業能率大学経営学部准教授。「ケースで学ぶホスピタリティ」「成功するプレゼンテーション」「インターンシップ」「企業と環境」「組織と人間行動」などを担当。
所属学会:産業・組織心理学会、日本カウンセリング学会、日本学校心理学会、ホスピタリティ学会、日本マーケティング学会、組織学会、日本国際観光学会正会員。
著書:
「一緒に働きたい」と思われる心くばりの魔法ディズニーの元人材トレーナー50の教え
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